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マグノリアの絆 第四十二回

 薄暗い中に、工具類が散乱していた。すっかり錆びついたスコップや鶴嘴。車輪のない一輪車には雨水が溜まっていた。安もののブランデーだろうか、茶色や緑の瓶が散乱し、なぜかトランプやチェスの駒が散蒔ばらまかれていた。

「ここに、穴が……」

 佳苗のつぶやきを耳にしながら、私はすでに彼女と同じ所を見つめていた。床には薄い鉄板が敷きつめられているが、一箇所だけ、無理に引き剥がされた痕があった。亀裂のような細長い裂け目。湿った土が闇を縁取り、みょうに鋏の赤い蟹が一匹、這っていた。私は迷わず膝をつき、中を覗きこんだ。こんな姿勢をとっても、レインコートのおかげで服を汚さずに済む。

 奥に薄明かりが見える。薗子はたしか、懐中電灯の類を所持していなかったので、不可解な現象である。岩盤を想わせて硬い壁面に鉄梯子が打ち込まれ、そのまま垂直に下降している。

「降りてみましょう」

 佳苗の表情にさっと怯えが走ったのは、予想どおり。そんな繊細さは不必要と言わんばかりに、さっそく踏桟ふみざんに足をかけた。レインコートの下は制服のままだが、運動靴を履いておいた。濡れた支柱が掌にひやりと冷たいが、ぐらついたりしない様子。壁面に貼りついているイモリを横目に降りてゆくと、案の状、頭上で佳苗が、ひっ、と叫んだ。

「残念ね、オレンジマーマレードじゃなくて」

「京子さんは平気なの」

「水棲生物がなぜこんな所にいるのか、不可解ではあるわ。戦国時代の連歌師、宗長の手記に、こんなエピソードが載っているの。静岡の掛川城は、築城に際し、最も重要な井戸から、なかなか水が出ない。一年近く掘り続けてもまったく成果が得られないので、嫌気がさしてきたところ、穴の底から上がってくる籠に、黒い小さな蛙や小蛇が混じり始めた。水は近いぞと勇み立つうちに、やがて水を掘り当てたというわ」

 佳苗は何も言わないが、おそるおそる踏桟を足で探りながらも、耳を傾けているようだ。私は言葉を継いだ。

「不思議だと思わない。千尺も掘ったとあるから、三百メートル以上かしら。そこまではオーバーだとしても、果てしない地の底から蛙なんかが出てきたというのだから。四、五年前のことらしいけど、漂泊の連歌師は現地で聴いているのだし、まったくの法螺話とも思えない。佳苗、ファフロツキーズという現象を知ってる?」

「知らないわ」

「空からの落下物、という英語を略したものなの。日本では怪雨とも呼ぶのだとか。魚や蛙などの水棲生物が、その名のとおり空から降ってくる現象よ。鳥や竜巻のしわざではないかと言われるけど、真の原因は謎のまま。もしかすると水辺の小動物たちは、現実と異界の狭間に棲んでいるのかもしれないわね」

 私の的外れな無駄話が、少なからず彼女を落ち着かせることは計算の上。この穴が現実的な欲望と搾取の痕跡ではなく、冒険に満ちた地下の国への通路であり、私たちは二人のアリスなのだと、彼女は思い込ませるためだ。地上を離れるにつれて当然、暗くなってゆくが、ある地点を過ぎると、今度は下のほうから徐々に明るさが増してきた。梯子と平行して、用途不明の鉄パイプがボルトで固定されていることに気づいた。水を孕んだ壁面を蟹の集団が鋏を降りながら移動してゆく……その先に鋳物の角灯が取り付けられていた。

 オイルランタンだろうか。それにしてはあまり炎が揺れないし、いったいこんな地底に打ち捨てられていては、一日も経たずに燃え尽きてしまう筈。

「盗電だわ」

 頭上で佳苗がつぶやく。なるほど埃ですっかり曇ったガラスの中に点っているのは、電灯とおぼしく、よく見れば鉄パイプに穴があり、そこからコードが伸びている。地上の建物が壊されたあとも光を失わないのは、佳苗の言うとおりだからだろう。

 薗子が以前からこの「道」を知っていたことに、もはや疑いの余地はない。通い慣れた彼女の足は、私たちがおずおずと進める歩の比ではあるまい。すでに下まで滑り降り、別世界へ跳び出している頃かもしれない。事実上、私たちは彼女を見失ったのだ。

 同じような角灯の脇を、四、五回は通過しただろうか。急に空間が開け、梯子はそこで尽きていた。縦穴から、横穴へと変わっていた。地面もまた滑らかな岩盤で、数センチほど水に覆われていた。黒い小型のサンショウウオが、身をくねらせながら泳ぎ去る。その下に、巨大なモーターが廻っているような振動があり、うおおおおん、という機械のようで、半ば生物的な唸り声が低く、恨めしげに谺を返していた。行く手に覗く角灯の列によって、横穴が緩やかに下降していることが知れた。

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