マグノリアの絆 第四十一回
「まだ中にいるわ。この前より、出てくるのが遅いみたい」
佳苗の報告どおり、その建物は古城めいておどろおどろしい。けれども、もとはそれなりに瀟洒な造りだったようで、ファサードに唐草模様の浮き彫りがあるし、すっかり煤けてはいるが、玄関の上部にはステンドグラスがはめ嵌めこまれている。いかにも「戦前」の建築らしいモダンさが、随所に見受けられる。成金どもが、これを取り壊せと騒げば騒ぐほど、おのれの文化的素養のなさを露呈するようなものだろう。
薗子はなかなかあらわれなかった。
霧のようだった雨がまともな粒に変わり、レインコートの肩を叩いた。ゴムに覆われているとはいえ、時間とともに染みこんでくる感触は、とても心地好いとは言えない。しかもみょうに蒸し暑く、内側からは汗が衣服を濡らし始める。
「どうする、京子さん」
「どう、とは?」
「今日はもう、帰ったほうがいいかな」
私は「どうする?」と問われるのが好きではない。なぜそんなふうに自身で考えることを無責任に放棄するのか、他人に依存できるのか。たしかに私は佳苗を「洗脳」したが、「調教」の度合いが足りなかったと考えねばなるまい。彼女が私を気遣って言ったのだとは理解していたが。私の沈黙に不安を掻きたてられたのか、佳苗は言葉を継いだ。
「もしかして私たち、窓から見られているかもしれない」
覚えず目を向けたが、空き部屋以外の窓は、すべてカーテンを閉ざしたまま、頑なに外界を拒絶しているように思えた。半ば無意識に、私は微笑んでいた。
「太宰の警句を覚えてる?」
「太宰治? たしか、待って待って待ちくたびれて、待ちきれなくなって家を飛び出した次の日に便りが届くとか」
「往々にして、そんなものでしょう。気の進まないパーティーほど出席すべきなの」
雨粒の中に小さな溜め息が洩れた。
「京子さんは、我慢強いのね」
佳苗の声に、皮肉は微塵も籠められていなかった。私がいわゆるお嬢様で、甘やかし放題に育てられた割に、という皮肉は。私の自己愛は、そのようなレベルを超越しているのではないだろうか。じつは佳苗とつき合うようになって、自分自身の変化に気づき始めていた。彼女を変えようとするうちに、自身の内部に不可解で大きな力が目覚めてゆくのを感じた。彼女の目に映る私の「我慢強さ」も、その不可解な力を象徴しているのではないか。
そろそろ「計画」を変更する時期が、せまっているのかもしれない。
「出て来るわ」
憑かれたような声に夢想を破られた。玄関を凝視したが、四角く貼りついた闇の中に、はじめは何も見えなかった。やがて闇から切り取られたように、小さな人影が浮き出した。まさにそれは実体を離れて独り歩きする影にほかならず、あってはならない現象に思えた。黒っぽいレインコートにくるまっているのは、判っているのだけれど。
影は夢遊病者の足取りで、こちらへ近づいてきた。前のめりの姿勢が、右に左に、ふらふらと揺れる。前髪のせいだと知っているのだが、フードの中まで黒く塗り潰されているのを見たときは、戦慄を禁じ得なかった。夜行性の獣じみて、一つ眼が蒼い光を帯びた。そのまま影は、手を伸ばせば触れそうなほど近くを、脇目もふらず通り過ぎた。
私がもの陰から飛び出したので、佳苗はぎょっとしたようだ。留めようとした声を押し殺すのが判った。影の僅か数歩後ろを、同じ速度で追ってゆく。一度でも振り向かれたらゲームオーバー。だが、決してそうしないだろうという奇妙な確信があり、また先日、佳苗が見失った後の行く先を捕捉したかった。
角を曲がると急に視界が開けた。整地されたまま荒れ放題の広い土地の中に一箇所、手つかずの瓦礫が取り残されていた。何か複雑な事情があり、宅地造成計画が頓挫したものと覚しい。予想どおり、影は瓦礫だらけの地所へ入り込んでゆく。あの不安定な歩き方で、よくつまづかないものだ。むしろ私たちのほうが遅れをとっているから、よほど通い慣れた道だということか。
納屋を潜ったとたん、影は吸いこまれるように消え失せた。




