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マグノリアの絆 第三十九回

  ◇

 これは雨宮京子が、森田佳苗から聞いた話である。

  ◇

 三組の名簿を手に入れるのは容易だった。それによって、有村薗子の住所を知ることも。丘の上で唯一の「公団住宅」は、戦時中まで行われていた採鉱の名残だという。真っ先に忘れたい記憶のように、現在は鉱山時代の遺物は綺麗さっぱり取り払われ、幾たりかの行方不明の鉱員もろとも、徹底的に穴が埋められていた。ただ、かつては労働者たちのねぐらであった建物の一部が、「公団住宅」の名のもとに、丘の上に置き去りにされていたのだ。

 美観を損ねる。という名目で、近隣住民から集中砲火を浴びていたが、煩雑なお役所事情が絡めば、騒いだからといってそう簡単に事は推移しない。引いては泥棒の巣窟と化しているとか、青少年の健全育成に害をもたらすとか、デマをまじえた激しい非難が飛び交う始末。噂によると、解体業者の社長が裏で音頭をとっているという。

 事実、豪邸や小綺麗な住宅が並ぶ中、廃墟然とした灰色のビルは、あたかも魑魅魍魎の棲まう古城を想わせた。日が暮れてもほとんどの窓に灯りは点らず、居住者は十世帯にも満たないようだ。

 薗子を「尾行」する機会は、早くも雨宮京子から依頼を受けた二日後に訪れた。彼女は寄り道をせずに自宅へ帰った。例の前髪でほとんど顔が隠れる前屈みの姿勢で、脇目もふらずに歩くのだ。団地の敷地内。ひび割れたアスファルトの上には、チョークで隙間もないほど落書きされていた。遊んでいる子供の姿など、一人も見かけなかったけれど。まるでヴードゥー教の儀式に用いるヴェヴェのような落書きを踏みながら、薗子はぽっかりと口を開けている闇の一つに消えた。死体を蘇らせるという、ヴードゥーの秘儀のイメージが、どうしても尾を引く。西行の人造人間もまた、死者の骨から造られたのではなかったか。

 彼女の自宅とおぼしい、三階の左端の窓を見つめていたが、色褪せたカーテンがぴったり閉ざされたまま、錆びついた鎧戸のように動こうとしなかった。両親が共働きであることは、薗子の口から聞いていた。独りきり、薄暗い部屋に灯りも点さず、薗子はどんなふうに時間を過ごすのだろう。テレビやラジオはまったく視聴しないと言っていた。私たちの話を聞くのは好きらしいが、ついに自分から読書する気にはなれなかったようだ。むろん、私たち以外に「友達」がいる筈もない。ただ、じっとうずくまっているのだろうか。闇の中で、左眼だけを爛々と輝かせて。

 一時間くらい、そうしていただろうか。ちょうど敷地内を見わたせる塀と塀の間に、身体がすっぽりと収まる空間があったので、私は誰からも見咎められることなく、長時間佇んでいられた。不思議と苦痛はなかった。薗子が消えてから、団地へ出入りする人影はまったく見かけていない。郵便配達のオートバイすら素通りする始末……ふと、地面を覆い尽くす「ヴェヴェ」に目を落として、不可解な戦慄に見舞われた。

 薗子がそこにしゃがみ込み、一心不乱にチョークをなすりつけている幻影が、浮かんで消えた。

 入口に人影があらわれたのは、そろそろ立ち去ろうかと思案している時だった。小柄な男だと、最初考えた。雨が降りだす気配はないのに、フードつきのレインコートを、頭からすっぽりと纏っている。ほとんど全身が隠れるほどぶかぶかで、ゴム引きの濃い緑色の生地には油の染みがついていた。小規模な工事を請け負う労働者だろうか。支配階級の牙城にも、薗子の両親も含めて、奉仕する側の人間は必要だ。もっとも、彼女が私のように窮していないのを見ると、それなりの報酬には預かっているようだが。

 かれは敷地を横切り、私のほうへ真っ直ぐ歩いてきたので、覚えず身を縮めた。ひどい猫背で、月に酔ったピエロのような足取り。目の前を通過するとき、フードに覆われた顔が一瞬だけ覗いた。いったいそれは、「顔」と言えるものだったろうか。ほとんど闇に塗りつぶされた中、さらに漆黒の髪が垂れ下がり、片方の眼だけが燐のように燃えていた。

(薗子……!)

 声が洩れそうになるのを懸命にこらえた。視線がぶつからなかったのは、気づかれずに済んだ証拠と自分に言い聞かせた。左右に揺れる背中がだいぶ遠ざかったところで、私は隠れ場所を忍び出た。前方の角を左に曲がった人影を小走りに追いかけた。急に開けた空間が私を驚かせた。古い屋敷が取り壊され、新たに宅地造成が為されるらしく、まるで不発弾が爆発したように、瓦礫がうずたかく敷かれていた。この丘で繰り広げられる栄枯盛衰のサイクルは速い。黄金の宮殿で昨日までふんぞり返っていた者が、今日には没落して、人目を忍ぶように逃げ出した。かたわら、かれの後釜として、有り余る大金を抱え乗り込んで来る新参者がいた。

 灌木がぽつんと取り残され、外壁だけが残る、倉庫らしい建物が口を開けていた。

 首を巡らしたけれど、誰もいなかった。見晴らしの利く場所なので、薗子らしい人影を見失う筈はないのだが……それとも私が追っていたのは、幻影に過ぎなかったのだろうか。

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