マグノリアの絆 第三十八回
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図書室の会合に、彼女が毎日姿を見せたわけではない。そのことを責めるつもりはなかったし、理由もいっさい訊かなかった。
「もしも、例の噂が本当だとしたら」
曰くありげな視線を佳苗に向けた。すぐに意を汲み取って、彼女は肩を震わせた。
「まさか、京子さん……」
「あなたほどの適任者はいないのよ、佳苗。この学校の誰よりも、『下界』のことを知悉している、あなたほどの」
見る間に蒼ざめてゆくさまを、私は残忍な沈黙を保ったまま眺めていた。丘の下に広がる暗黒世界――下界を知るからこそ、佳苗が、おそらくここへ通う少女たちの誰よりも下界を嫌い、恐れていることを理解した上で。
佳苗の唇は震え、眼鏡のぶ厚いレンズの奥では瞳がせわしなく踊っていた。
「いやよ。だってあそこには」
「なに?」
「し……虱がいるもの」
彼女を威圧していた筈の私だが、これには吹き出さずにいられなかった。汚染でも犯罪でもなく、これほどまでに彼女を恐怖させているのは、小さな虫なのか。口に手を当て、肩を上下させる私に、珍しく佳苗は反論した。
「京子さんは、毎日お風呂に入っていたから、知らないのでしょう。虱は服にも髪にも卵を生みつけるのよ。私たちは薄暗い廊下に並ばされて、順番に頭からDDTを降りかけられたわ。まるで私たち自身が、虱であるかのように」
私は唇を噛んで、佳苗の頬を叩きたい衝動に耐えた。軽率な怒りの発露ほど、威厳を損ねるものはない。代わりに、幼子を諭すように身を屈めた。
「ねえ、佳苗。例え事実でも、私たちはそんな言葉を口にすべきではない。言葉にしたとたん、あなたの言うその厭らしい虫は、再び孵化してしまうのではないかしら。仮におぞましい事項を語る場合でも、私たちはもっと慎重に言葉を選ばなければならない。そう、ボオドレエルのように」
ボードレールの名をわざと、「ボオドレエル」と発音した。必然的に佳苗は、「人生は一行のボオドレエルにも若かない」という、芥川の警句を思い起こすだろう。効果は私の期待以上だった。猩紅熱が引くように、彼女の表情から恐怖の色が消えてゆくのを見た。
「丘の上には何もない。かといって、下界やそれに続く世界に何らかの価値があるのかというと、それも違う。ただ食べるためにあくせく働いたり、物見遊山に出かけて花を眺めたり、戦争で人を殺したり、音楽を聴いて踊ったり。どこへ行っても、何の価値もない断末魔のきりきり舞いが繰り返されているばかり。世界が微塵も変わらないのなら、自分で作りかえるしかない。私たちもまた、ちっぽけな蟻みたいに地面にへばりついて、巨大な力に、いいように踊らされているとしてもよ。それでも私たちには、世界を変える能力がある。変革するための特権を与えられている。屋根裏部屋で残酷な夢に耽った詩人は、私たちの同士だわ。ねえ、佳苗。そう思わない?」
「ええ……」
実を言えば私自身、ほとんど何も考えずに口走っていた。カデンツァやジャズ。あるいはいま流行のラップに近い感覚があったろう。けれども佳苗は異を唱えることなく、じっと耳を傾けている様子。ガラス玉のように虚ろな瞳は、「洗脳」が功を奏している証拠にほかならない。紅潮した頬は、ビスクドールのようにひんやりしていた。
「目を閉じて」
錆びついた鎧戸のように、ゆっくりと瞼が降りた。今の佳苗なら、窓から飛び降りてという命令にも従順だろう。
「何が見えるかしら」
「闇、が」
「どんな気分?」
「落ち着くわ。京子さんがいるから」
「そうね、闇は決して恐怖の対象ではない。完璧に保護されているとき、人はたいてい宇宙と同じ色に抱かれているものだわ。じゃあ次に、闇の中で目を凝らして頂戴。何が見えるかしら」
彼女の頬に両手で触れたまま、意識的に淡々と語を連ねた。二進法の言語を、電子頭脳に打ち込んでゆくように。
「後ろ姿の、女の子が」
「どんな様子なの」
「階段を降りてゆくわ。細長い、曲がりくねった階段を、終わりがないかのように、どこまでも。周囲は相変わらず真っ暗で、階段の行く先も闇に呑まれている。ただ、下のほうから、かすかに音が聴こえる。大勢の唸り声に似た音。地下の牢獄で、囚人たちが呻吟するような……あ、」
「どうしたの」
「女の子が微笑んだわ。幸福そうに笑っているわ。後ろ姿しか見えないのに、私にはそれが判る」
私は彼女の瞼に軽く唇で触れた。そして、囁いた。
「その子は、だあれ?」




