マグノリアの絆 第三十三回
軽くため息をついて、視線を移した。
窓際の、前から三番めの席に「その子」はいた。
聞いていたとおりの、極端な猫背。最初、熱心に本を読んでいるのかと思ったが、まるでイスラム教徒の礼拝のように、上半身を机の上に思うさま俯かせているだけらしい。その中途半端で苦しげな姿勢のまま、微動だにしないのは驚異的と言えた。艶の多い黒髪の先が、ちょうど机に触れるか触れないくらいに。
目標が定まると、私は歩を進めた。無言のまま、ゆっくりと。あからさまに挑発的な態度に、教室じゅうが色めき立つのが判った。けれども、かといって、妨害する者は一人もあらわれず、偶然、私の行く手に突っ立っていた少女が、ぎょっと飛び退いたほど。派閥の境目にできた「道」を渡って、「その子」の机の横で足を止めた。
漆で塗り固めたように、相変わらず彼女は動かない。髪の毛で遮断された世界の外で何が起こっていようと、いっさい関知しないと決めたのか。あるいは彼女にとって、黒いカーテンの向こう側には、とうに世界など存在しないのか。
校庭でシャトルを打ち返す音が高く響いた。それくらい、教室はしんと静まり返っていた。ぶつぶつと、「その子」が絶え間なく何事かをつぶやいていることに、ようやく気づいた。峰本の声が、沈黙を破った。
「用事がないのなら、さっさと出て行くことね」
真っ赤に塗った唇が憎悪に歪んでいた。先を越された焦りを滲ませつつ、長岡が便乗した。
「それとも、その窓からお目当てのリチャード先生が見えるというわけ?」
嗤うべきことに、彼女は知らぬ者とていない自身の恋心を、大声で告げているのだ。気まずい空気が教室に流れ、二度と口を開く者がいなくなった。私は「その子」の肩に、そっと手を置いた。一瞬、びくりと震えたきり、彼女は再び石化した。所属を問わず、少女たちは皆、我を忘れて私の一挙手一投足を見守っていた。
「有村薗子さん、よね?」
石像が目を覚ますように、頭が少しずつ持ち上げられた。ばさりと垂れ落ちた髪が、ほとんど顔を覆う中、私を見上げる眼ばかりが、鋭い光を放っていた。闇の底で輝く鉱石のように。
ガラテア。
強烈な電気信号のように、その言葉が私の脳裏でスパークした。理由が判らないまま、真っ白になってゆく視界に、懸命に耐えた。ただ有村薗子の、片方だけ覗く瞳から放たれる光が、私の内部で眠っていた何ものかを――ひとたび目を覚ませば、存在そのものを根底から覆しかねない何ものかを――激しく揺り動かしたのは確かだった。それが、
ガラテア、なのだろうか。
驚愕するピュグマリオンの幻影が浮かんだ。無数の蛇のように、彫像の髪の毛が金色の光をうねらせる。片手が石の肌から脱皮し、かれの頬へ伸ばされる。顔はまだ右半分が無機物のままだが、左眼はすでに生々しい輝きを宿している。願いが叶えられた青年は蒼ざめ、ありありと恐怖の表情を浮かべている……
気がつけば、私は彼女の手を握っていた。周囲の目には、陰鬱な少女を快活に励ましているように映ったろう。けれども実際は、私のほうが薗子にしがみついていたのだ。さもないと、私は「敵国」の中心で無様に卒倒していたに違いない。あとは保健室まで担いで行くという名目で、血に飢えた少女たちが、私をオルフェウスと同じ目に遭わせることは判りきっていた。
当初のシナリオとはかけ離れた、熱を帯びた口調で、私は薗子に告げていた。
「私のお友達になってちょうだい。お願いだから」
◇
これで立体パズルのピースが、揃ったように思えた。三組で私のとった行動は、野火のような噂となって瞬く間に広まったが、所詮は「偽善」として片付けられるまで、さして時間はかからなかった。放課後になると、私たちは三人とも別々に教室を出て、図書室の例の一角に集合した。最初のうちは後をつけたり、好奇の目で覗きに来る少女もいたが、「つまらないお喋り」に費やしているだけだと知るや、興味をなくしていった。きっと彼女たちには、高踏的な詩でも披露しあっているように見えたのだろう。充分に危険な思想や、血塗られた会話を、文学的に偽装する術に、私たちは長けていた。
有村薗子が果たして口を開くかどうか、やはり最初は私も訝った。引いては、最も知りたい情報を聞き出せるかどうかも。森田佳苗は孤独で貧しく、また典型的な文学少女であったため、初めから御しやすかったのだが。完全に外界をシャットアウトしている髪の毛が、鋼鉄のカーテンのように思えたものだ。現実に、薗子が図書室にあらわれた時には、意外な思いを禁じ得なかったほどに。




