マグノリアの絆 第二十九回
あるいは、
「今学期から三組に転校してきた峰本さんと長岡さんの家は、江戸時代以来の敵対関係にある。『下界』に隣りあう形で土地を所有していた地主で、工場誘致によって大儲けした。もとは広大な農地であり、戦前まで水争いが絶えず、しばしば流血沙汰にまで発展した。クラスでは現在、この二人が二大派閥のリーダーにのし上がっており、三組全体を巻き込んでの熾烈で陰湿な闘争を繰り広げている模様」
あるいは、
「二組の奥山さんには、高所から密かに物を落下させるという奇癖がある。危険だからやめようと自分に何度も言い聞かせたが、どうしてもやめられないと。親友の呉さんにだけ打ち明けた」
あるいは、
「同じクラスの磯崎景子さんが経験した、幾つかの『怪談』。彼女は近頃、新築の建売住宅地に引っ越したため、周りの家にはまだほとんど人が入っていない。二階の一部屋が、勉強部屋兼寝室として、彼女にあてがわれていた。四日ほど前、ふと夜中に目が覚めて、カーテンの隙間から窓の外を眺めると、隣の二階の窓に、ぼんやりと灯りが点っていた。けれども、隣にはまだ買い手がついておらず、もちろん住人が引っ越してきた形跡はない。見守るうちに、やがて光はすーっと消えた。外の灯りが反射していたのだろうと考え直し、カーテンをぴっちりと閉めた。次の日、学校から帰ってみると、ドアに鍵がかかっていて、母親は留守らしい。自身の合い鍵で開けようとしたところ、後ろから、ドウモ、スイマセン、と、カタコトで声をかけられた。見れば、ひょろりと痩せた外国人の青年で、頬から顎にかけて、黒い無精髭が貼りついていた。皺だらけのスーツを着て、ネクタイは締めていない。手ぶらなのを不審に思いつつ、ハンサムだと感じた。何事かしきりに話しかけてくるが、英語混じりのカタコトが要領を得ない。磯崎さんは英会話部に入っており、去年の文化祭では『真夏の夜の夢』の英語劇でハーミア役を演じたほど。得意の英会話を披露しかけたとたん、何を思ったか、外国人の男は脱兎のごとく逃げ去った。取り残された彼女は、首を傾げる以外になかった」
次の日以降になると、幾つかの続報らしきものがあらわれ始めた。
「二組の藤沢さんと伊藤さんが、本日、三時間目の休み時間に口論の末、絶交。原因は猿渡さんに語った猫の一件が、藤沢さんの耳に入ったためらしい。藤沢さんは、うちのミュシャに限って人を噛む筈がないと激怒。嘘つき呼ばわりされて、伊藤さんも激しい口調で反論し、先述の結果を招いた」
また、
「磯崎景子さんの行き逢った謎の外国人の正体が、ほぼ判明した。釈然としないまま、昨日になって彼女が母親にそのことを話すと、先日まで隣に入っていた塗装工の見習いに、似たような風貌の外国人がいたという。米英人ではなく、中近東の人らしい。根拠がないので黙っていたが、その男を見かけるようになってから、ちょくちょく景子さんの下着が紛失したとか。もしかすると、あの夜、隣の窓に点っていた灯は、その男の仕業ではなかったか。そう思い当たって、磯崎さんは震えが止まらなかったそうだ」
ただ、肝心な「その子」の足取りは、なかなか見えてこなかった。
ひとつは、下界に出入りしている女生徒がいるという噂が、よくある七不思議の類い同様、この学校では昔から語り継がれてきた。いわば、伝説化されたパターンであるからだ。学校のトイレにあらわれる幽霊の名が、時空を超えて同じであるように。「その子」は伝説の中で独り歩きし、ほとんど固有名詞と化していた。
エメラルド国の女王のように、「その子」は、この学校の少女でさえあれば、誰の首ともすげ替えることができた。私は佳苗が収集した噂話から「その子」のリストを作ってはみたが、徒労に過ぎなかったかもしれない。目立つから、逆に大人しいから、奇麗だから、醜いから、贔屓されているから、生意気そうだから、派手になったから、あるいは零落してきたようだから。様々な理由にかけつけて、「その子」の首は次から次へとすげ替えられていった。
自分以外の誰かを「その子」に仕立てることで、少女たちが自身の密かな願望を託したことは言うまでもない。すべてが黒く煤けた街。痩せこけた男の子たちが、闇の底からぎらぎらと好色な眼差しを向ける。夢見る少女たちは、いわば魔界をさまようお姫様だ。終には小説の登場人物のように、自分以外の誰かである「その子」は、下界で容赦なく八つ裂きにされるだろう。彼女らが、舌舐めずりして愉しむ幻想の中で。
そして「その子」のリストに、私、雨宮京子の名が頻出するのを知ったときは、さすがに苦笑を禁じ得なかった。




