マグノリアの絆 第二十八回
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これは勅使河原美架が、雨宮京子から聞いた話である。
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有村薗子の噂なら、森田佳苗と懇意になる前から、耳に入れていた。もっとも最初のうちは、誰を指して囁かれている噂なのか、判然としなかった。ただ「その子」は私たちと同じ二年生であり、「下界」に通い詰めている不良娘なのだ、としか。
「どうすれば、その子の正体がつかめるのかしら」
図書室でのディスカッションが終わりに近づくにつれて、謎の少女への、私の興味はいや増した。渇望にも似た好奇心が、みずからを驚かせるほどに。
「京子さんみたいな人が、なぜそんなことに興味があるの」
佳苗の疑問は、私が自身の胸へ投げかける問いにほかならない。おずおずと、彼女は尋ねたものだ。
「下界で遊びたいから?」
「もしも、イエスと答えたら」
蝋のように蒼ざめた顔を、私は冷ややかに見返した。佳苗にとって、それは死刑宣告に等しかったろう。曲がりなりにも、丘の下から這い上がってきた彼女だ。養父の暴力さえ、再び下界へ連れ戻される恐怖に比べれば、まだ耐えやすかった。友達がいなくても、貧乏を蔑まれても、「お嬢様学校」の制服を着続けることに、彼女は固執した。
そして「雨宮京子」が訪れる放課後の図書室こそが、彼女の最後の楽園だった筈だ。ここから出なければ。そう焦りはじめていた、私とは裏腹に。
「そんな顔しないで。汚らわしい下界の盛り場なんかに、私が興味を持つと思う? これはちょっとした、探偵ごっこになるんじゃないかしら」
象牙の塔で書物に囲まれ、論じ合う時期は終わったのだ。次の段階へ進むキーワードが「その子」であることを、私は直感的に理解していたのかもしれない。
ドゥーチェへと至る道を。
ごっこ、という一言に、佳苗は心から安堵した様子。象牙の塔から、ベーカー街に面した二階の一室へ引っ越したところで、何が変わるだろう。アームチェアの上での推理と、観念を弄ぶ遊戯との間に、どれほどの違いがあるのか。探偵を演じたがっている私の幼稚さを微笑ましく感じ、見守る気になったようだ。ワトソン博士が軍用ピストルまで持ち出して、何度も友人の冒険に付き合わされている事実を、忘れたわけではあるまいが。
ともあれ、森田佳苗は次の日から、予想だにしなかった「探偵の助手」としての有能さを示し始めた。空気のように、周囲に無視されているから、逆に空気のように、どこへでも入りこめる。Aの派閥とBの派閥が囁きあうお互いの陰口を、警戒されるずに傍受できる。誰からも相手にされない佳苗が、どんな陰口を耳に入れたところで、音声が空気の中を素通りするのと同じこと。裏に私という高感度の受信機が控えていることを、彼女たちは誰も知らない。
まずは「その子」に関する情報の出所を絞ってゆく必要がある。そのためには、あらゆる囁き声のスキャンから始めなければならない。どんな噂話でも取捨選択せず、手当たり次第拾ってくるよう、私は佳苗に指示した。情報の価値を決めるのは佳苗ではなく、私なのだから。
これもひとつの才能なのか。あるいは私の意に沿いたくて、死にもの狂いになっている結果か。鈍重そうな見かけによらず、彼女が一日のうちに掻き集めてくる情報量には、目を見張らされた。私は要点をメモしながら、どんな雑多な話にも、シェーンベルクを聴くように耳を傾けた。一見、何の価値もなさそうな情報の中にこそ、重大なヒントが隠されている。これはベーカー街の男の言いぶんではなかったか。
もとより、無駄な噂話の類いが私は大嫌いだった。聞かされるだけでへとへとに疲れ、後には虚しさしか残らないから。ところが不可解なことに、森田佳苗というアンテナを介して聞こえてくる雑多な噂には、言い知れぬ魅力を感じた。「その子」の手がかりが全く含まれていなくても。例えば、
「二組の藤沢さんの飼い猫が、同じクラスの伊藤さんの指を噛んだ話。伊藤さんは何度も遊びに行っているから、猫とも顔見知りのつもりだった。先週の日曜日。二人がいつもどおり、お菓子を食べながら話し込んでいたら、猫がテーブルの下から伊藤さんにすり寄ってきた。毎度のことなので、手探りで頭を撫でてやると、ちくりと鋭い痛みが走った。悲鳴をこらえるのがやっとだった。人差し指に、針で刺したような血の玉が浮いていた。どうしたのと訊かれて、何でもないと誤魔化した。猫はもう、藤沢さんの膝に載って咽を鳴らしている。五歳になる茶色い雌猫で、名前はミュシャ。藤沢さんには内緒だと言い含めた上で、伊藤さんが三組の猿渡さんにこれを聞かせた」
直接聞かされれば、確かにうんざりしただろう。けれど佳苗という第三者によって感情のトーンが抜き去られ、客観的に整理された「お喋り」には、かえって奇妙な味わいが得られた。それはちょうど「耳嚢」のような、江戸期の市井の噂話を集めた随筆集だとか。あるいは鴎外が海外のニュースをランダムに併記した「椋鳥通信」にも似た味わいだったのかもしれない。




