マグノリアの絆 第二十五回
言葉を選びながら、彼女は静かに語るのだが、声質が好いのか、風の音に掻き消されない。こういう人が政治家になると、恐ろしいのだと美架は思う。慎重、かつ断定的な話しかた。相手を酔わせる、音楽的な声。上品な言葉の中に、さりげなく仕込まれる毒は、やがて人の心を操らずにはおかないだろう。
森田佳苗がそうであったように。
I城を過ぎ、やがて前方右側に、こんもりと木立があらわれた。いわゆる「F中の森」であり、木立の裏側は東京競馬場にほかなるまい。金曜日なので、くしゃくしゃの馬券を握りしめ、目を血走らせた私の姿は目撃されまいが。
雨宮は前方を見つめたまま、左手をギアから離し、ダッシュボードの上のハンドバッグを開けた。透明なフリーザーバッグを取り出し、やはり目を合わせずに、かざしてみせた。
「つけてくださる?」
どう見ても、中身は手錠と目隠しである。
「なぜ?」
「プライバシー保護のためよ。これから訪れるのは、秘密の場所だから」
無言で受け取ると、金属の手錠が掌にずしりと重い。目隠しも本物の革製と覚しい。探偵の宿命なのか、よく目隠しを強要される。麻布の暗闇坂から、「酒井先生」と赴いた秘密クラブが記憶に新しい。が、しかし、手錠まで嵌める必要がどこにあるのか。そもそもオープンカーの助手席に、そんな出で立ちの女が座らされていたら、かえってものすごく目立つではないか。
矢継ぎ早に浮かぶ疑問符を読み取ったように、雨宮は言う。
「人間の動体視力なんて、たかが知れてるわ。まして、注意力に至ってはお話にならない。スポーツカーと白髪の女とパンク娘。それだけでメモリーはいっぱいになって、風変わりなものを見たという印象が、ぼんやりと残るだけでしょう」
決して納得できないものの、みょうな説得力は否めない。この人の意に沿いたい。意のままになりたいという信号が、身体の奥から発せられるのが判る。自身の意志とは無関係に、その信号に操られて、手が勝手に動くようだ。もともと「ファッションで」つけていた手枷を外し、鉄の輪をみずからの手首にあてがった。
「自分でつけるのって、意外に難しいでしょう。そんなものよね。自分で自分を、催眠術にかけることはできないもの。締めすぎないように気をつけて」
ぎりぎりと、金具の音が響く。左右に引っ張ってみたが、馬の力でも引きちぎれそうにない。重く、冷たい異物感。その痛みに似た感触が、体温とともに、徐々に吸われてゆく。金属と皮膚との奇怪な妥協。腕を閉じている限りにおいては、重いアクセサリーの一種だと錯覚するほどに。
「これまでに、手錠を使ったことは」
使った、という言い回しに違和感を覚えたが、あえて触れなかったという。
「初めてだと思いますが」
「ご感想は?」
「とくに、何も」暫し考えてから、美架は付け足した。「少し、落ち着くようです」
ふ、ふ、ふ、という声が風に舞う。
「ね、これ以上ないくらいシンプルな仕掛けなのに、これ以上ないくらい、自由を奪ってしまう。美しいと思わない? こんなリングを作りたいものね。腕を貸して」
綴じ合わされたままの手首を差し出した。雨宮の左手には、小さな鍵が摘ままれていた。外してくれるのかと思えば、鍵を逆さに持ったまま、先端のピンを手錠の側面の小穴に差し込むのだ。ちらりと横目で眺めただけで、少しもあやまたず。首を傾げる美架に、笑い声混じりで雨宮が囁く。
「安心して。ダブルロックをかけておいたから。これでどんなにあなたが暴れても、締めつけられることはない。ところで、そのまま目隠しの紐が結べて?」
「あ……」
安心どころではない。ロックされた理由が氷解する思いがした。無様な体勢で革紐と悪戦苦闘する間、雨宮の視線を痛いほど感じた。そのまま百何十キロかの速度で、壁に激突するのではないかと、恐怖を覚えるほど。
視界が閉ざされると、急に速度が意識された。風の音が意地の悪い風妖の口笛と化して、五感を掻き乱す。わざとなのか、雨宮は黙りこんだまま。覚えず耳に手を当てようとすると、金属の輪が肌に食い入り、圧倒的な存在を主張した。無間地獄とは、このようなものか。闇の中で地面の感触が消え失せ、途方もない空中をひたすら滑り落ちてゆく錯覚に陥る。
ともすれば迸りそうになる悲鳴を、必死に耐えている自身に気づいた。




