マグノリアの絆 第二十四回
ミステリー談義はまだ続いていた。
「じゃあ、エラリー・クイーンなんか、お嫌いじゃなくて?」
「理論がかっているからでしょうか。あくまで好みの問題として、国名シリーズを読むのは苦痛でしたが、ドルリー・レーンものはどれも面白く読みました」
「もとシェイクスピア劇の名優で、盲目の名探偵。なるほど、あなたが好みそうだけど、でも、悲劇シリーズのほうが、より純粋なミステリーという印象だわ。それにしても」
風の中で、雨宮京子は肩を揺らした。
「好みじゃないと言いながら、けっこう読んでいるわね。だけど、あなたほどの名探偵なら、つまらないでしょう。半分も読まないうちに、犯人が判ってしまうから」
「推理小説とは、作者と目隠しをさせられた読者とが、差し向かいでチェスをしているようなものではないでしょうか」
「謎解きより、ミスリードされるのを愉しむものだ、と」
「はい」
「ならば質問を変えるわ。あなたのワトソン、酒井謙作の小説に関しては、どう思われて?」
環八通りから甲州街道を右へ折れた。やはり都心へ向かうのか。慢性的に渋滞する道だが、時間帯によるのか、けっこう快適に流れている。
もしもこのとき、初代ロードスターの助手席を目にした者がいたら、うつむいて、片手を胸に当てた勅使河原美架が映ったことだろう。彼女のこんなポーズなど、めったに見られないとは夢にも知らずに。
「卑怯だと思います」と、ゆくりなくも彼女は言ったものだ。
「私の質問が?」笑い混じりに、雨宮は問う。
「違います。酒井先生の小説は、暗示的な描写だらけです。そのため、肝心な謎の提示は遅れに遅れ、しかもいざ解き明かされる段になると、まるで投げやりな印象を与えます。少なくとも、クイーンのように『フェア』だとは言えません」
「それはあなたが……家政婦探偵・鹿苑寺公香が、謎を解きたがらないことの反映ではないのかしら。快刀乱麻を断つ謎解きよりも、謎そのものの中に浸っていたい。ちょうどあなたが、カーの『夜歩く』を好むようにね」
不意に陽が陰ったかと思うと、高速道路の高架下に入っていた。ひんやりとした風が頬を打つが、寒いほどではない。はらはらとなぶられっ放しの髪を、美架は初めて両手で撫で下ろした。雨宮は言葉を継いだ。
「かれのことを卑怯者呼ばわりするつもりは、さらさらないのだけど。かれ、というのは、シャーロック・ホームズのことなんだけどね。その『明晰な』推理の中で、ずいぶん古めかしい女性観を露呈しているわ。女であるがゆえに、必ずしかじかの行動をとるであろう、といった」
「馬車でロンドンを駆け回った時代の人ですから」
「大目に見るべきでしょうね。ただ、かれが唯一完敗した相手がまた、女ときている。古今稀にみる天才的犯罪学者、モリアティー教授と互角に戦ったかれが。異国の美人女優に、手もなく裏をかかれている」
「何が仰言りたいのですか」
雨宮が導く会話は、まるで迷路だ。その迷路は貝殻状で、螺旋形の堂々巡りを繰り返すうちに、より深く、より昏い奥底へと、いつしか誘われてゆく。何十年か前、森田佳苗を意のままに操ったように。
鋏を入れられた街路樹を左手に見ながら、緑色の看板が並ぶ右方向へと、彼女はハンドルを切った。首都高「E福」入口である。一旦ニュートラルに入れたギアがセカンドまで落とされると、重低音を響かせて車は坂道を上り始める。ゲートを過ぎてM鷹方面へ、謂わば来た道を逆へたどるのだ。
途中、通過した「T井戸」から中央道に入れれば、こんな面倒なルートをとる必要ないのだが。入口が存在しない以上、のらくらと甲州街道をたどるより、より快適に西進できる。とは承知しているものの、彼女との迷路じみた会話と相まって、しだいに現実から遠ざかり、異界へと足を踏み入れて行く感があった。
なんとなく、雨宮が「酒井謙作」の小説を好んだ理由が、美架には理解できた。
たちまち開けた空の下で、雨宮は言う。
「アナクロニズムではあるけれど、敗北を認めているからこそ、かれの女性観には一目置かざるを得ない。例えば有名な一節に、女性は、わが家が火事だと知ると、本能的にいちばん大切なものの所へ飛んでゆくものだ、とか。あなたに当て嵌まるかしら」
「何とも言えません。経験がありませんので」
「檀一雄の小説ではないけれど、本当は誰もが、我が家がめらめらと燃えていることに、気づいていないだけではないかしら」
M鷹の料金所を過ぎると、中央道に乗り、さらに西を目指す。抜けるような青空のもと、白い薄化粧の富士山が、道路の先にあらわれた。そのどこか女性的な佇まいを眺めながら、雨宮はようやく口を開いた。
「そう。私は突然、気づいてしまったの。十四歳になった瞬間。私が朽ち果てるまで、この身を焼き尽くそうとする炎の存在に。だから私のとった行動は、かれの口を借りるなら、野性的な本能以外の何ものでもなかったのかもしれない」
コナン・ドイル/阿部知二訳「シャーロック・ホームズの冒険」(創元推理文庫)より引用しました。




