マグノリアの絆 第十八回
◇
これも勅使河原美架が、雨宮京子から聞いた話である。
◇
人を壊すことが、こんなにも愉しいものだとは、思いもよらなかった。図書室でのディスカッションを重ねるごとに、佳苗の存在意識は私の手の中で見る間に崩壊していった。脆い人形のように。
昏い図書室の一角。書物が少しずつ菌類に蝕まれ、朽ちてゆくにおいの中で、私たちは時間を忘れて語りあった。覗きこむ生徒などいないことは判っていたが、頬がくっつかんばかりに身を寄せて、囁き声を交わした。私たちの声は、菌のにおいと化学変化を起こし、麻薬じみた陶酔へと誘うのだ。
「プロメテウスが罰せられたのは、人間に知性を与えたからでしょう。ならば知性をもつことは、罪なのかしら」
退廃的な画集や挿絵を開いたまま、私たちはお互いに反対の手で頬杖をついて座っていた。うっとりと、半ば目を瞑った様子は、双頭の姉妹が、現在みている夢について、話しあっているように見えたかもしれない。
「人間以外の動物には、罪がないと思って? そもそも佳苗は罪を何だと考えるの」
「悪の原動力かしら」
「なるほど、悪なのね。動物には悪がない。その代わり良心もない。ただひたすら生き延びるために生きている。血まみれの牙をまだ生きている獲物の腸に突っ込むスミロドンと、マンモスの肉を日干しにするクロマニヨン人との違いはなあに?」
「欲望の持続性」
「今日食えたからといって、明日食えるとは限らない。胸に埋めこまれたプロメテウスの炎に、じりじりと身を焦がされる。同じ人間から奪うことを覚え、殺すことを覚え、罪の意識にまた身を焼き焦がされる。なんて、地獄的なのでしょう」
「良心があるから、苦しむの?」
「悪の対義語は善であって、良心ではないわ。おのれに良心はなく、あるのは神経ばかりだと言った、芥川の言葉は気が利いているわね。動物の中でも知能が高いと、悪とよく似た行動があらわれる。カラスが忌み嫌われるのも、死肉を漁ったり、不吉な色のせいばかりでなく、鳥類の中でも抜群に頭が好いからよ」
「でもカラスは苦しんだりしない」
「ある学者の目撃談。負傷した蟹を仲間の蟹が背負って逃げた。感動しながら眺めていると、石の陰でその蟹をむしゃむしゃ食べ始めたとか。また、ある種の猿は、ボスが打ち負かされて新たな牡が君臨すると、ハレムを形成する牝猿が前のボスとの間に生まれた子供を、食い殺してしまうというわ」
「何ら良心の呵責を覚えず……」
「だって、それが本能であり、習性に過ぎませんもの。森林という、限られたニッチの中で生き延びるためには、何らかの意味を有するのでしょうけど。哲学的な意味を求めたところで、徒労に終わるだけね」
「それは、哲学の母体が悪だから?」
触れなくても、佳苗の頬が上気するのが判った。私たちは、悪という概念を好んで弄んだ。それは黄金に縁取られた緋色のマントのように、私たちが身につけるのを今や遅しと待ちながら、観念の闇の中で重々しくひるがえっていた。あたかも血塗られた、皇帝のマントのように。
私はわざと、佳苗の質問をはぐらかした。
「そろそろ、プロメテウスがなぜ罰せられたのか、答えが出た頃じゃない」
口籠もる彼女を、私は冷ややかな笑顔で見つめた。賛美歌を歌うように、声のトーンを上げた。
「自身と瓜二つの贋物に、神様が腹を立てたからよ」
神話によると、人は神のコピーとして誕生した。ならば人として最も罪深い行為とは、さらにそのコピーを、つまり自分自身のコピーを、我が手で生み出すことではあるまいか。
おそらく私が「ガラテア」と仮称する考えに憑かれ始めたのは、このアイデアを得たときだろう。十四歳で死ぬことを望み、道連れを欲していた筈の私が、なぜ今頃になって、そんなものを作る気になったのか。一見、正反対の概念のように思える、死の希求と「ガラテア」の制作とは、どのような隘路でつながっているのか。自身、悩まざるを得なかった反面、きらびやかな龍のように妖しい魅力が、深淵でとぐろを巻いていた。
佳苗との迷路じみたディスカッションを重ねるうちに、ガラテアの心臓が芽生えたのは確かだ。過去にも未来にも、決して存在し得ない心臓が血の色の脈動を開始したときの恍惚を、私は忘れないだろう。
天才的な腕前をもつ彫刻家ピュグマリオンは、自身で彫った女性像に熱烈な恋をした。冷たい大理石を抱きしめ、口吻けし、愛を囁きながら、日ごとに憔悴してゆく。これを哀れに思った美の女神が、彫像に命を吹き込み、かれの思いを遂げさせる。この彫像の名が、ガラテアと言われている。
私は悪という緋色のマントを、人形に着せたいと願った。




