マグノリアの絆 第十七回
◇
「ちょっと、話の腰を折っていいかな」
眩暈に似た浮遊感に耐えられず、私はそう言っていた。
独特な三白眼が、しばたたくのを見た。耳鳴りのような残響が、後頭部にわだかまっていた。昼も夜も低いノイズに覆われているという、「常夜町」の記憶のように。
冷えたカップの縁に、勅使河原美架はちょっと指先で触れた。
「何かご質問が?」
「うん。雨宮京子がその話をしている間も、森田という人は、ずっと隣に座っていたんだよね」
美架はうなずいた。どうして判りきったことを訊くのかと、言わんばかりの態度で。
「でも雨宮は、少女時代に森田という人を、いわばその、洗脳して、殺害しようと計画した。よくそんな話を、隣で黙って聞いていられるもんだ、と思ってね」
「実際に殺したのであれば、あの場に森田さんは存在しなかったでしょう。幽霊でもない限り」
「まあ、そうなんだが」
むしろ森田佳苗が幽霊であってくれたほうが、現実味がある気がした。出版物の話題から察するに、時代は一九六〇年代に入ったばかりだろう。場所はどこかの汚染された工業地帯。南側に海があり、関西から遠いとなると、神奈川県のどこかか。
しかし、常夜町は仮の名だと雨宮も明言しているが、今も、そしてかつても、どこにも存在しない街であるという印象がぬぐえない。天岩戸が閉ざされた後の世界……巧みなメタファーを駆使する、雨宮の語り口にも依るのだろうけれど。
「つまり酒井さんは、こう仰言りたいのですね。すべて雨宮京子の作り話か、少なくともほとんど嘘である可能性が高い、と」
「そう言ってしまえば、身も蓋もないけどさ。きみが『鹿苑寺公香』と知って、ちょっとからかいたくなったとか」
「煎れなおしましょう」
美架は席を立ち、湯をコンロにかけて再沸騰させた。茶葉を入れ替えたポットから、好い香りがたちのぼる。後ろ姿の彼女は言う。
「たとえ虚構であっても、私にはほとんど関係ございません。例えば酒井先生はいま、左手の人さし指にエイドテープを巻いていますね」
「ああ、これは……」
「昨夜の、おそらく九時前後に、ご自分で林檎を剥いていて、怪我をなさったのでしょう」
「よく判ったなあ、ホームズ」瞠目するしかない。
「三角コーナーに林檎の皮が残っていましたわ、ワトソン博士。また、昨夜は九時から、TVの特別番組で松本清張原作のドラマでやっていた筈です。先生はめったにTVは観ないほうなので」
「動く映像を長時間みていると、ものすごく疲れるんだ」
「存じております。おまけに、録画する装置も所有していらっしゃらない。ただ、清張はお好きだから、昨夜のミステリーはまず、ご覧になっただろう」
「そう。林檎でも食いながら、ゆっくり見るつもりだった。でも、きみも知ってのとおり、おれはものすごく不器用だから、ぐずぐず皮を剥くうちに、始まる時間がせまってきた。それで、ぐさっとやったのさ」
自分で自分を刺したのだが、まるで犯罪を告白させられたような気分になる。新しいカップを並べながら、美架は言う。
「もちろん、今の推理は当てずっぽうに過ぎません。可能性は決して、一つに絞られてはおりませんから。例えば先生がどこかの猫にちょっかいを出して、指を噛まれた可能性も残っておりますし」
女ではなく、猫か。そう言いそうになったが、黙殺されるのがおちなので口をつぐんだ。彼女は続けた。
「あるいは先生が、女性に噛まれたのだと嘘を仰言っても、完全に否定する材料を、私は持ち合わせておりません。」
「過去など、いくらでも作りかえられる?」
「ええ。箱の中で飼われている、物理学者の猫みたいに」
どうも彼女は量子力学の思考実験を、実話と勘違いしているフシがあるが、それはそれで愉快なので、あえて修正は加えなかった。
紅茶を注ぎ終え、美架は再び席についた。
「虚構であれ、記憶の錯誤であれ、それが彼女たちの中で生き続けている過去なら、それは真実と等価値でしょう。私はただ、不思議な話を期待していただけなのです」
そうして、ソーサーごとカップを持ち上げ、うっとり目を瞑った。勅使河原美架の口から、歌うような言葉があふれた。
きっぱりいいきろう。
不思議はつねに美しい。
どのような不思議も美しい。
それどころか不思議のほかに美しいものはない。




