マグノリアの絆 第十六回
風変わりな画集だった。
ときどき実家に三越から送られてくる、洋書の目録の中に見出したものだ。これを密かに私名義で注文して取り寄せた。タイトルは「Martyr」、すなわち「殉教者」。様々な画家による様々な聖者の殉教場面だけを集めたもの。必然的に、一冊が血なまぐさい絵画で埋め尽くされている。
佳苗はグイド・レーニの絵を探すこともしばし忘れて、画集に魅されたようだ。斬首された自身の首をかかげて歩行する聖ドニ。生きながら全身の皮を剥がされる聖バルトロマイ。腸を巻揚機に巻き取られる聖エラスムス。ライオンの餌食にされる聖イグナチウス……ゆっくりと項を繰るたびに、私は簡単な解説を加えてゆく。佳苗が貪るように耳を傾けていることを、承知しながら。
「女性もいるのね」興奮に声が掠れていた。
「そう、これは有名な聖女、カタリナ。車輪裂きの刑に処されているわ」
「車輪裂き?」
「この絵で見る限りでは、刃を植えた車輪に下から腹部を裂かれているけど。ほかにも様々なバリエーションがあって、実際にどんな処刑方法なのか、私にもよく判らない。車輪の側面に手足を縛られて、別の車輪で引き裂かれている絵も見たし、身を仰け反らせる恰好で、曲面に繋がれている場合もある。そういったディテールは、画家それぞれが想像力を働かせるんじゃないかしら」
むろん、昏い悦びにうち震えながら。
さらに私は項を繰った。柱に縛られ、巨大な鉄梃で歯を一本ずつ抜きとられる聖アポロニア。乳房を切り取られる聖アガタ。聖バルバラは衣服を剥がされて何度も打擲され、乳房まで切り取られるが、そのたびに天使があらわれて傷を癒やし、服を与える。
「おかげで、最期に斬首されるまで、何度も繰り返し恥辱と苦痛を味わわなければならなかった。まるで縛られたプロメテウスね」
「ギリシャの神さま?」
「そうよ。プロメテウスは天上の火を盗み、人間に与えたわ。つまり文明をもたらして、サルからヒトへと進化させてしまった。その罰として岩山に縛りつけられ、鳥に肝臓を突かれるの。ところが夜になると肝臓は再生するため、延々と刑罰は繰り返される。どうして古代人は、肝臓に再生能力があることを知っていたのかしらね」
とりとめのない私の話の一つ一つが、佳苗には言い知れぬ魅力を秘めているようだった。読書量なら私より俄然多い筈だが、おそらく夏目漱石は読破していても、ブルフィンチなどは素通りしているのではあるまいか。まして、近頃その翻訳が裁判沙汰になった、マルキ・ド・サドの存在など夢にも知らないのだろう。
つまり、彼女ほど御しやすい「獲物」は、またとないということだ。
項をめくると、ようやく聖セバスティアヌスの殉教図があらわれた。
みずみずしい若者である。樹木に吊された裸体には、何本もの矢が打ちこまれている。後ろ手に縛られているか、片方だけ腕を上げた姿勢が多いので、両方の手首を高々と吊り上げられている、レーニの構図は珍しいといえる。
どうやらこの必然的に強調される「腋窩」が、あえて俗な言い回しをすれば、三島には「たまらなかった」と覚しい。上擦った声で、佳苗は言う。
「想像していたより、女性的なのね。すでに二本の矢が打ちこまれているにもかかわらず、天に向けられた眼差しは、うっとりと夢見るかのよう。肌は白くて大理石のように滑らかだし、確かに腕や肩は逞しいんだけど、腰が極端にくびれている。それに……」
「下腹部が隆起する辺りまで引き下げられた腰布の下に、男性器が存在するとは思えない」
おそらくその言葉を、他人の口から聞かされるのは、初めてだったのだろう。佳苗は見る間に赤くなり、画集から目を逸らした。
「そう考えたの、図星でしょう」
キスをするときに目を閉じるものだということを、彼女は知らなかった。眼鏡のフレームがぶつからないよう、私も目を開いたまま、震える彼女の唇に、自身の唇を近寄せた。溶岩のような、佳苗の吐息が洩れた。
三島の小説を胸像にしたような、同性愛へと彼女を感化したかったわけではない。死神の冷たい接吻が、彼女には必要だと感じたまでだ。私たちの関係は、儀式のようでなければならない。どこまでも終わりのない感傷や感情に溺れ、流されるのではなく、ギリシャ悲劇のように運命的な終局へと、一場面ずつ確実に歩んでゆかなければならない。
たちまち鳴り響いたバッハの序曲が、私たちの体を引き離させた。私は素早く画集を仕舞い、代わりに真新しい、真っ黒な筺入りの単行本を取り出した。
「今日持ってきたのは、三島じゃないの。でも、この一冊を、かれは絶賛しているわ。曰く、殺し屋ダンディズムの本、なんですって」
彼女は両手で本を受け取り、絵のない、黒く塗りつぶされた筺の表面を、呆然と眺めた。彼女が見つめる先には、ただ白い活字で、澁澤龍彦という著者名と、「黒魔術の手帖」というタイトルが浮かんでいただろう。闇の中に浮かぶ暗示のように。
鳴り響く序曲の中で、佳苗が夢中で本に頬を押しつけるのを、私は見た。




