マグノリアの絆 第十五回
なぜ佳苗は谷崎の小説を読んでいる自身を、無意識に恥じたのか。それは文学という迷宮の奥に潜む、美の酒杯をかかげた悪魔の存在を、幽かにではあるが、嗅ぎとっていたからではあるまいか。
言葉の美しさにただ酔わされる快感を知り、同時に後ろめたさを感じていたに違いない。
詰問するように彼女を見下ろしたまま、私は技巧的に声のトーンを柔らかく調整した。
「三島は谷崎の『細雪』を評して、光琳、宗達の芸術――いわゆる、琳派ね――との親近性を指摘しているわ。写実主義と装飾主義とは楯の両面であり、この一つの根から生い出た二つの花こそが、日本的美学というものだと」
「よく判らないわ。けど……」
どこからともなく入り込んできた西陽が、佳苗の横顔を照らした。頬が紅潮しているように見えたのは、むろん、光の加減ではあるまい。溜息混じりに、彼女はつぶやいた。
「奇麗なのね」
退室を促すための音楽が鳴り始めた。バッハの「管弦楽組曲」第二番の序曲だ。まるでSP盤から録音したような、間延びした音質には少々驚かされた。そういえば図書室が閉まる頃まで残っていたのは、初めてだと気づいた。
うつむいたまま本を閉じ、佳苗は席を立った。その顎に指を滑らせると、ぎょっとしたように顔を上げた。古ぼけた、それゆえにみょうな哀愁の漂う演奏を聴きながら、私は彼女を、正面から見つめた。
「ね、その本は今夜じゅうに読んじゃうでしょう。明日は何も借りずにここにいてちょうだい。佳苗、あなたのために、本を持ってくるから」
名を呼ばれて、虚ろな瞳が大きく見開かれた。「友達」らしく彼女の手を取ったとき、瞬時、逃れようとする力が働くのが判った。もしかしたら彼女の生命体としての本能が、死神の手から逃れようと、藻掻いたのかもしれない。
次の日の放課後、私が迷わず手渡したのは「假面の告白」だった。「仮面」ではなく、假面という旧字体が、味気ない表紙の中で、恐ろしげに震えていた。その文字の裏側に、得体の知れない何ものかが、息を潜めているかのように。
「読んでもいいの?」
奇妙な質問だと感じた。私が突然示した好意への戸惑いだとか、他の女生徒と同様に、私がただ彼女の貧しさをからかったのではなく、実際に本を持ってきたことへの驚きだとか。複雑な感情が、佳苗の舌を縛ったのに違いない。それは理解していながら、どうしても私には、禁断の木の実を手にしたときの、覚えず許可を求めるおののきのように聴こえた。
「もちろんよ。佳苗に貸したんだから。もっと読みたければ、また持ってきてあげるわ」
「あ、ありがとう」
礼を言う間も、彼女は手にした本の表紙に、憑かれたような視線をさまよわせていた。次に背をまるめて机に貼りつき、むさぼるように文字を追い始めた。獲物が毒杯をあおる瞬間を見届けた私の唇には、おぞましい微笑が浮かんでいたことだろう。
効果は覿面にあらわれた。
翌日、教室で顔を合わせたとたん、彼女がほとんど眠っていないことを確信した。通読しただだけでは飽き足らず、また最初から繰り返しページをめくったに違いない。私へ向けられた腫れぼったい瞳には、明瞭に「飢え」が読みとれた。
(もっと、ちょうだい。もっと……もっと)
佳苗の視線は、明らかにそう語っていた。下の街に横たわるヒロポンの常習者と同じ目をしていた。クラスメイトに見られないよう、私は素早く佳苗に囁いた。
「もう読んだの? べつのを持ってるから、また放課後の図書室で」
私はわざと、退室時刻間際にあらわれた。佳苗はいつもの席に、はやり少し猫背気味にかけていた。机の上には一冊の本が開かれたまま。それが昨日私が貸した本であることは、覗きこむまでもなかった。
気配を察したのか、声をかけるより先に彼女は振り向いた。泣き腫らしたような目の下を、べったりと隈が縁取っていた。私は手を後ろに組んで、天気の話でもするように、明るく話しかけた。
「愉しめた?」
「ええ、とても」
「どういうところが、好かった?」
「絵を、みるところが……」
ほとんど消え入りそうな声が、そう答えた。作中、少年時代の「私」が、聖セバスティアヌスの殉教図を観て、自慰を覚えた場面に違いない。それはグイド・レーニの絵であることが明記されており、私は今日、その複製図版を鞄に忍ばせていた。
「見たい?」
懸命にうなずく彼女を眺めて、私はまた毒殺者の微笑を浮かべた。




