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マグノリアの絆 第十四回

 ただ一人だけ、同じクラスに気になる子がいた。

 その子は誰からも無視されていた。理由は、彼女が貧しかったからにほかならない。むろん、労働者階級の娘が「丘」に棲むことは許されないし、この学校に入れる筈もない。彼女は幼くして孤児となり、「丘」の住人である伯父に引き取られていた。

 私は彼女に直接話しかけることなく、日々教室で囁かれる噂話から、容易に彼女の身の上を知ることができた。同じように裕福で、同じように清潔な少女たち。彼女たちは、身の周りから自身とは無関係な悲惨を拾い上げては、飴をしゃぶるように、しゃぶり尽くすのを好んだ。

 技師だったその子の父親は、娘が生まれて間もなく事故で死んだ。溶鉱炉に落ちて骨も残らなかったという。母親は一人娘の手を引きながら、この街で懸命に生きたが、やがて疲れ果てたように裕福な男と恋に落ちた。関西の造船会社の重役である。空襲で破壊され、手つかずの状態だった、この街の港を視察に訪れていたという。男は連れ子の受け入れを拒否した。再婚相手に連れ子の養育義務は、ないのである。母親の姓だけが変わり、西方の都市へと姿を消した。

 父親の兄にあたる男が、忽然と「丘」に現れたのは、彼女が十歳の時だった。それまで杳として行方が知れなかったのだから、闇市場で荒稼ぎした資金を元手に、乗り込んできたと覚しい。役所が動き、かれと姪を引き合わせた。金の亡者にほかならない、この男が養育を快諾したのは、母親の再婚相手が、多額の養育費を遺しておいたからだ。

 かれは金がかかるという理由で家族を持たず、身の周りの世話は愛人を兼ねた秘書にさせていた。養育費を手中に収めると、姪への出費を削れるだけ削ろうとした。飯は食わせてやれ。「丘」の学校にも入れてやれ。あとは死なない程度に放っておけと、秘書に命じた。

 彼女は小遣いをほとんど持たず、制服の綻びを自分でつくろい、弁当も手製だった。私服から下着まで、みずから古着を解いて縫ったものだと噂された。無造作に切り揃えた髪。野暮ったい眼鏡をかけ、いつも自身の机の上で独り、本を開いていた。

 痩せすぎで、お世辞にも美少女とは言えなかったが、我知らず彼女を見つめている自身に気づくことがあった。時おり彼女は、言葉を反芻するかのように、ページから顔を上げた。視線を感じたのか、私のほうへ顔を向けると、分厚いレンズの奥で、大きく目をしばたたかせた。

 ガラスのように、虚ろな瞳。

 その瞳はたしかに、彼女が私と「同類」であることを物語っていた。

  ◇

「それが私なの。十四歳の頃の」

 宙で支えたカップの後ろで、森田佳苗が微笑を浮かべた。

 彼女の髪を白く染めた時間は、それが流れていった痕跡を皮膚の上にも、痛々しく遺していた。けれどもその瞳だけは、当時と同じ光景を、今も見続けているように思えた。

 雨宮京子は語り続けた。

  ◇

 試験前でもなければ、放課後の図書室は、いつもがらんとしていた。かりそめの春を謳歌する少女たちにとって、ここは亡霊たちの言葉が詰めこまれた、陰鬱な穴蔵でしかないのだろう。

 森田佳苗が必ずここにいることも、噂話に含まれていた。書棚の陰になった一角に、彼女の後ろ姿が見えた。辺りは妙に薄暗く、周囲のもの音や話し声からも隔絶されて、佳苗がページをめくるときだけ、乾いた音が響いた。

 足音を忍ばせる自身を、吸血鬼のように感じた。私は彼女を死へいざなおうとしている。死へ誘うことは、同時に永遠の生を約束する行為でもある。真後ろに立ち止まっても、まだ気づかない。後ろ髪が二つに割れて、意外に美しい襟足が覗いた。泣いているのだろうか。なぜか一瞬、そう考えた。

「本が好きなの?」

 振り向いた瞳は驚きに見開かれていたけれど、やはりガラス玉のようだった。佳苗の声が細く震えた。

「雨宮……さん?」

「京子と呼んでちょうだい。お邪魔でなければ、ちょっとお話しできるかしら」

 前に回り込むと、机に軽く手をついた。あえて屈み込んだりせず、女王然として、背筋を伸ばしたまま見下ろした。複数の感情が、佳苗の頬に現れては消えた。驚愕、懐疑、羞恥、不安……そして最後に歓喜の色を読み取ったとき、我が意を得た思いがした。

 いずれこの子を、意のままに操れるに違いない、と。

 何を読んでいたのか尋ねたとき、佳苗は覚えず開いたページを両手で隠そうとした。栞もはさまずに本を閉じると、表紙をかざしてみせた。谷崎潤一郎の初期短篇集だった。

「三島由紀夫は読まないの?」

 当時、彗星のごとく文壇にあらわれ、寵児ともてはやされていた作家を、佳苗は知らなかった。新刊書を買う余裕がないため、学校の図書室にある「健全な」文学作品ばかりを読んでいるという。ならばなぜ、佳苗がページを隠そうとしたのか、三島を知っている私には、理解できる気がした。

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