マグノリアの絆 第十回
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彼女が森田佳苗と行き逢ったのは、次の火曜日だった。
銀の初代ロードスターと表札の外された門。月桂樹の径を渡って、玄関へは入らず、直接「茶室」へ来るように。家政婦派遣所経由で、そう伝えられていた。先週とはうって変わり、例年より一足早い白いものが、今にもはらはらと落ちてきそうな雲行きである。
彼女は螺旋階段を見上げた。覚えず二の腕をさすったのは、寒さのせいばかりではない。
(もしお厭でなければ、次に来るときも嵌めていらして)
右手の甲を眼前にかざし、指輪を眺めた。これが雨宮京子という隠者を訪ねるための、いわばキイなのだろう。もしこれをつけ忘れたりしたら、呼べど叩けど、茶室の扉は開かないのではあるまいか。
階段を登りきり、ドアを開ける前に姿勢を正した。今日は客としてではなく、仕事で来ているのだ。そんな意識が、完璧な無表情の仮面と化した。ふつう、作り笑顔を浮かべるべき場面であるが。ノックは不必要。時間ぴったりに来いという指示なので、腕時計の秒針に合わせて、把手の金具を押した。
テーブルの前に独り座っていたのは、別の女性だった。
後ろ姿。美しい銀髪が切り揃えられた襟足は、校則に忠実な女子学生を想わせた。ゆったりとした、渋い配色のワンピースは、着物をリフォームしたものと覚しい。白いネッカチーフを頭に巻き、ハードカバーの本の上に、やや猫背気味にうつむいていた。
声をかける前に、その女性は振り向いた。真円形の眼鏡。内気そうな顔立ちは、いかにも文学少女がそのまま年を重ねたようだ。異様に澄んだ目が、驚いたふうもなく、すでに深々と頭を下げている戸口の女を見つめた。
「失礼いたします。東亜家政婦派遣所より参りました、勅使河原と申します」
老女は小首をかしげ、幽かに微笑んだ。作りものめいが印象の残る。その仕草には、雨宮京子との共通点がみとめられた。
「ご苦労さま。京子さん……いえ、雨宮先生は間もなくいらっしゃいます。さっそくで申し訳ないけど、三人ぶんのお茶を煎れてくださる? もちろん、あなたのぶんも含めて」
いまや絶滅が危惧される古風な言い回しもまた、雨宮を想わせずにはいなかった。ページの上に視線を戻しながら、彼女は森田佳苗と名乗った。
「先生のお友達なの」
何気なく付け加えられた一言が、別室へ退いた後も耳に残っていた。その一言に籠められた、鮮烈な矜持が。
茶室に付属する小部屋は、やはり板張りで窓がなく、すでに灯りがついていた。流し台に食器棚、小テーブルと椅子などが、機能的に据えられていた。本格的に料理を作るには、あまりに簡素。大仰な浄水器を見るにつけても、茶を煎れるのに特化した部屋だと知れた。
二台ある冷蔵庫のうち、一台はまるごと凍らない程度の冷凍室で、瓶詰の茶葉がぎっしりと詰められていた。無数のガラス瓶に、お揃いのラベルが几帳面に貼られたさまは、缶詰を好むと言った雨宮の性格をしのばせた。「Earl Grey」と書かれたラベルを前に、美架は眉根を寄せた。
ブレンドはお任せすると、あらかじめ告げられていた。先週、雨宮が手ずから煎れた紅茶は、彼女の腕前が「プロ級」であることを証明していた。仕事柄に趣味を添えた美架の実力が並以上であることは、私もよく知るところだが、プロのデザイナーであるうえに金も暇も有り余る老婦人の眼鏡に果たしてかなうのか。自信はまったくなかったと、後に美架は述懐した。
あえて「庶民的」なブレンドを心がけ、盆を手に茶室へ入ると、テーブルにはすでに雨宮京子の姿があった。美架が覚えず目を見張ったのは、雨宮の頭に小さな黒い帽子が載っていたからだ。落ち着いたワインレッドのジャケットに、リボンタイ。ひとつ席を空けて、森田佳苗の隣にかけたまま軽く会釈した。
「髪を切ってあげましょうか」
悪戯っぽい笑みを浮かべてそう言った。間違いなく、「気の触れた帽子屋」を意識した台詞だ。となると、森田が「三月兎」であり、空いている席は本来「眠りネズミ」が座るべきところ。そこへ美架をかけさせて、お仕舞いには頭からティーポットへ押し込むつもりだろうか?
カップを並べるときに指し示されたのは、けれども二人の向かい側の席だった。スコーンの小皿を配り、茶を注ぎ終えたときには、さすがに緊張したという。ほぼ同じ動作で、二人がカップをソーサーごと持ち上げるさまは、蒼古たる自動人形の風情があった。どちらかが眉根を寄せないかどうか、美架は注視していた。
「そう、こんな解釈もあるのね。参考になるわ」
先に雨宮が芸術家らしい感想を述べた。褒め言葉であったかどうかは、別としても。森田が次に「美味しいわ」とつぶやいたが、これも社交辞令でないという保証はない。ともあれ、二人とも眉は顰めなかったので、一応は合格したのだろうか。
森田佳苗の指輪に気づいたのは、緊張がやや薄らぐのと同時だった。




