マグノリアの絆 第八回
◇
「その指輪は、左手の薬指に嵌められていたんだね」
私が尋ねると、三度めに煎れかえたカップの向こうで、美架はうなずいてみせた。
「だとすると必然的に、その老婦人は結婚していることになる。ところが、おれの知る限り、雨宮京子は独身のはずなんだ」
「よくご存じですね」彼女は眉毛ひとつ動かさない。
「『キャラバン』という雑誌の取材に、雨宮が珍しく応じている記事を読んだのさ。二、三ヶ月前の号だったか、残念ながら、そのバックナンバーは捨ててしまったけれど。たしか結婚歴もなければ、恋人や愛人の類いがいた試しもない、と。あとのほうの真偽はともかくも、強い意志をもって独身を貫いているように感じた」
「先生の写真に、指輪は写ってなかったのですか」
「作品の紹介がメインだったし。そもそも、顔写真ひとつなかったような。雑誌の記事にしては、なるほど異様だね」
「取材した記者は、きっと先生の指輪に気づいたのでしょう」
「だから、ちょっと不躾な質問をしてしまった? 面倒なことを訊かれたくなければ、指輪は外しておけばいいのに。しかもどうして易々と誤解を招くような、左手の薬指なんかに嵌めていたんだろう」
音もなく、カップをソーサーごとテーブルに戻し、勅使河原美架は正面から私を見据えた。どぎまぎする暇も与えず、彼女は言い放つ。
「その指輪は、決して抜けないのです」
◇
「試してご覧」
そう言って老婦人は、彼女に左手を預けたという。
「切り取る以外は、痛くしても、どんな方法を用いても構わないわ」
軽くつかんだ手首は、驚くほど細かった。もう片方の手で指輪を握り、引いてみたけれど、確かに抜けない。肥って抜けなくなったわけではない証拠に、少しも肉に食い入っていない。そもそも彼女の指に、脂肪らしいものは確認できず、研ぎ澄まされたようにほっそりとしている。
まるで何らかの魔力がはたらいているかのように、指輪は婦人の指に貼りついたまま、少しも動かなかった。
「不思議ですね」
賞賛混じりの溜息を、美架は洩らした。あらためて顔を近寄せ、そのまま目を奪われた。
よほど時を経ているのか、銀が黒っぽく変色し、渋みを醸している。全体の印象は、けれども、さほど洗練されているとは言えない。この時点では、美架はまだ老婦人が「雨宮京子」だとは知らないわけだが、彼女の近作のシルバーアクセサリーと比較すればなおさら、造形の野暮ったさは際立つだろう。
いったいなぜ、彼女ほどのデザイナーが不格好な指輪を、しかもどういう仕掛けか、「決して抜けない」ようにして、特別な意味を持つ指に嵌めておくのか。ひとつの謎と言えた。
接吻を受ける貴婦人のように、彼女はしどけなく腕を預けたまま、
「シグネットリングというの。もとは中世の貴族なんかが、紋章を彫り込んで身につけていたものね」
指輪の腕から流れるような曲線で中央が膨らんでおり、そこに彫られているのは、確かに中世の紋章を想わせた。美架の唇から、また溜息が洩れた。ふつう、盾型に獅子や一角獣や火蜥蜴などが描かれる西洋の紋章とは、まったく異質な意匠が、まず目に飛び込んできたからだ。
「ソロモンの星……!」
日本においては、ドーマンセーマン。いわゆる五芒星であり、陰陽師・安倍晴明の家紋としても知られる。
さすがに戦慄を禁じ得なかったと、美架は語る。呪縛されたように、「ソロモンの星」から目を離せずにいるうちに、うっすらと花の形が浮かび上がってくるのが判った。星の中に嵌めこまれる恰好で、花弁が薄く彫り込まれている。
桔梗、だろうか。星形の家紋はふつう、この花の意匠と解される。けれども、花弁は七枚まで数えられ、先端はさほど尖っておらず、舌を想わせて細長い。まるで螺旋を描くように咲いた様子は、今にも散ってしまいそうな儚さを漂わせている。
「モクレンでしょうか」独り言をつぶやくように、美架が尋ねると、
「仮にそう呼ばれることもあるわね」
「仮に?」
「ええ。これは現実には存在しない花。夢の中でしか咲かないの。その代わり、現実みたく、散って無残に踏みつけられたり、蝕まれることもない。ただ夢の中で、ひっそりと咲き続けるのよ」
永遠に。
歌うようにつぶやきながら、こちらへ向けられた眼差しを、美架は忘れないだろう。色素の薄い、灰色がかった瞳は、ガラスでできているとしか思えないほど、虚ろだったから。美架の声は、少し震えたかもしれない。
「それは何という花なのですか」
老婦人は左手の指を立て、自身の顔の前に手の甲をかざした。片目を隠したまま、それがゆっくりと翻されたとき、彼女の本当の瞳がどこにあるのか、思い知らされた気がした。
マグノリア。
一音ずつ、ピアノの鍵盤を鳴らすように、老婦人はそう言った。




