マグノリアの絆 第七回
路地へ入り、さらに幾つか角を曲がった。常緑樹が急に濃い陰を作るなか、朽ちかけたカラスウリの、したたるような赤が目に映えた。何となく北鎌倉の、明月通りに近い路地に、迷い込んだ気がした。
あの事件が起きた場所に。
辺りには、こぢんまりした家が並ぶ。洋風建築と古い日本家屋とが、奇妙な調和を保っている。煉瓦づくりの門柱だけが残る家の前で、老婦人は足を止めた。
「ご苦労さま。ここが私の家よ」
門柱の横のカーポートでまどろむ、銀色の車が、まず美架を驚かせた。初代ユーノス・ロードスターと覚しく、銀器のように磨き上げられ、ナンバープレートも健在。ひとたび目覚めれば、快調なエンジン音を響かせることだろう。
この「スポーツカー」を、老婦人が駆るというのか。トートバッグの重さも忘れて見入っている美架の耳もとで、ほ、ほ、ほ、と笑い声が弾けた。
「ごめんなさいね。車があるのなら、使えばいいのにと思ったでしょう」
「ご自分で乗られるのですか?」少々不躾ながら、尋ねずにはいられなかった。
「稀に。骨董品みたいなものだけど、なかなか手放せなくてね。日本車にしては、奇麗な曲線をしているから」
また笑い声。絹の手袋ごと、口もとを覆っていた手を翻し、次に彼女は門の中を指差した。
「仕事帰りと仰言ったわよね。お茶くらい、ご馳走させてくださる?」
断る理由も見つからず、美架はやはり竹久夢二的な、老婦人の背中に従った。
月桂樹の植え込みがあるだけの、簡素な庭。石畳は苔むし、中央が磨り減っていた。その先に覗く家の壁は、杉の板が剥き出しのまま。ほどよく風雨にさらされて、木目に味わいが出始めているが、前世紀的な庭のたたずまいに比べれば、家全体の印象はかなりモダンだ。近年、家だけが建て替えられたものらしい。
「荷物はここに置いてちょうだい。どうもありがとう。茶室へ案内するわ」
玄関を素通りして、彼女の背中がそう言った。数寄屋でもあるのかと思えば、家の脇から金属の螺旋階段をのぼり、中二階の「茶室」に通された。
真四角な部屋の、四方の壁は板張りで、窓もなければ、絵の一枚もかけられていない。横長のダイニングテーブルに、アン王朝様式の椅子が数脚。美架が座らせられたのは、ちょうど挿絵のアリスと同じ位置だ。
天井板がなく、剥き出しの梁の上に磨りガラスの天窓が覗き、そこから柔らかな雨のように光が降ってくる。室内に「和」の要素はほとんどないが、にもかかわらず、濃い陰影に包まれているうちに、いつしか「茶室」に座っているような気分を覚えた。
入り口とは反対側に、もうひとつの小ぶりなドアがあり、独り待たされている間、食器の触れ合う音が聞こえてくる。後で知ったのだが、そこは茶の支度をするためだけの小部屋で、母屋とは繋がっていない。つまりこの茶室に入るには、外の螺旋階段をのぼるしかない。
ややあってドアが開き、カートを押した老婦人があらわれた。
「お待ち遠さま」反射的に立ち上がりかけた美架を制し、「お客さまは、じっとしているものよ」
悪戯っぽく肩をすくめてみせた。彼女が手ずから並べてゆくのは、銀製のティーポットに薔薇絵のカップ。お揃いの小皿にはスコーンが載っている。他人に茶の用意をさせることに慣れない家政婦は、どうしても落ち着かない。おしまいに、ガラスの脚付きコンポートがテーブルに載せられるのを眺めながら、上の空で尋ねた。
「それは?」
野生の苺だろうか、という思いがまず浮かんだ。深紅の、少しこぶりな球形の果実が、鉢にたっぷりと盛られていた。
「茘枝というの」
鱗状の表皮を、婦人は左手でつまみ上げた。目の前に差し出された果実は、甘い、退廃的な香りがした。レチタティーヴォを口ずさむように、彼女は言葉を継いだ。
「ら、ら、ら、ら、ライチとも呼ばれる赤い実は、なかなか生では手に入らないわ。とくに今の季節はね。缶詰のものなら、あのお店で簡単に買えたでしょう。けれどもこの濃い赤を堪能したければ、摘みたてのものでなければ意味がない。南の国からたった一晩で運んできても、次の朝には色褪せてしまうから」
「夢のように……」
「そう、夢、そのものみたいに」
不意に唇の間へ、赤い実が押しこまれた。
そのとき初めて美架は、彼女の薬指に嵌められた指輪に気づいたという。
悪戯っぽい貴婦人の笑みの前で、それは銀色の、まがまがしい光を帯びた。
「皮は簡単に剥けるわ。意外に大きな種があるから、噛んでしまわないよう、気をつけてちょうだい」




