マグノリアの絆 第六回
美架もまた、たった一瓶のオリーブオイルのために、袋を所望するつもりはない。レジを済ませ、バッグに瓶を放りこむと、しばらく外にたたずんでいた。
空気は冷たいが、よく晴れた小春日和。ぶらんこを高く漕ぐのか、近くの公園から聴こえる子供たちの歓声が、鎖の軋む音と混じる。どこもゆったりと広い庭で、紅葉が終わりかけている。歩道には、落ち葉がモザイクのように散り敷かれてゆく。
「つまりきみは、そんな高級な某所に住んでいると?」私が尋ねると、
「まさか。仕事帰りに寄ったまでです」
ちなみに私は、勅使河原美架がどこから来るのか、いまだ掴めずにいる。
食材店から老婦人が出てきたのは、五分も経った頃だろうか。案の定、缶詰を満載した白い麻のトートバッグを重たげに抱えて。駅のほうへ向かわず、バスを待つでもなく、タクシーに乗る意志もなさそうなことを確かめてから、彼女は歩み寄った。
「お持ちしましょうか」
例によってにこりともせずに申し出れば、老婦人の顔が瞬時、戸惑いに曇るのが見てとれた。無理もない。とてもこの界隈の住人とは思えない、地味過ぎる身なりの女が、何を企んでいるのか判らない無表情で、声をかけてきたのだから。席を譲るのと違って、必然的に自宅を知られることでもある。
親切心でも大きなお世話でもなく、家政婦の習性なのだと美架は言う。明らかに「手」が必要な状況を尻目に、何もしない家政婦など、いわば目の前を昆虫が悠然と這っていても、舌を伸ばさないカメレオンに等しいのだ、と。
「待っていてくださったの?」
あらためて彼女を眺めながら、老婦人は言った。ガラスの瞳で、全身をスキャンされているような感触。美架はつぶやいた。
「ご迷惑でなければ」
「迷惑だなんて、とんでもない。とても助かるわ。ご覧のとおり、ちょっと買いすぎちゃって」
悪戯っぽい笑みが、ふくよかな唇に浮かんだ。有害ナ人物ニアラズ、という検査結果を得たかのように、急にくだけた口調になっていた。持ってみると、トートバッグはずしりと重く、むしろ老婦人が、自宅まで徒歩で運ぶつもりだったことの意外さに打たれた。
あるいはこの謎めいた婦人は、必ず差しのばされる「手」があることを、計算に入れていたのだろうか。美架の脳裏を、ふとそんな幻想がよぎった。カメレオン女が声をかけなくても、道々、何者かが……例えば親切心にあふれ、力みなぎる青年が、にこやかに近づいてきたとしたら。
(ありがとう、ここが私の家よ。お茶くらい、ご馳走させてくださるわね?)
そして、何年も前からこの界隈を騒がせている失踪事件が、またひとつ。
「あなた、だいじょうぶ? 重たいでしょう」
冷たい指のように、老婦人の声がひやりと背に触れた。
「平気です。慣れていますから」いまひとつ、的外れな返答が口をついたが、相手は気にしたふうもなく、
「それは頼もしいわ。でも覚悟して、ちょっと遠いわよ」
やはり「罠」なのか……再び美架の脳裏に、数滴の液体をティーポットに垂らす老婦人の幻影が、浮かんで消えた。
道行く人影は少なく、食材店の中があれほど込んでいたのが、嘘のようだ。まるで婦人が身に纏う静謐さが、現実に影響を及ぼすかのように。彼女の周囲で時空はゆがみ、やがて不可思議な者たちが跋扈する昏い地下の国へ誘われる。そんな錯覚をぬぐえなかった。
穏やかな口調で、老婦人は言う。
「こんなに缶詰ばかり買いこんで、変人だと思われたかしら」
「いえ……」
「自分でも、判ってるつもりなのよ。だけど、つい、ね。舶来の缶詰が並んでいると、手を出してしまうの。好きなのかしらね。中身は何だって構わないのかもしれない。もの珍しいラベルと、完璧に閉ざされた金属の中には、単なる食材ではなくて、もっといろいろなものが詰まっている。そんな気がしてならないのね」
「つまり、夢のようなものが」淡々と、美架は合いの手を入れた。
「そう。たぶん、夢、なのよね。だからそれは、缶が空けられると同時に、消えてしまうものでもあるわ。目覚めたとたん、夢が消えてしまうように、ね。あとに残ったのは、永遠から再び放り出されて、腐敗への時間を歩まざる得なくなった、ただの食材というわけ」
缶詰は、密閉した上から熱を加えて殺菌したものだと聞く。菌が存在しない小空間が缶の中に形成されるわけだが、菌がいなければ理屈上は永遠に腐らないと考えると、みょうな気分にさせられる。誰に言うともなく、老婦人は言葉を継いだ。
「そんなの、つまらないわ」
饒舌になった婦人の声は、やはりどこか人工的で、この世とは異なる次元から、響いてくるようだった。例えば缶詰の中のように、「永遠」が封じ籠められた小空間から……袋の重さが全身を無感覚にしてゆく中、問われるままに、美架は自身が家政婦であることを答えていた。
「そう。あなたが現れたとき、そうじゃないかと直感したの。失礼な意味ではなくてよ。ただ、どこかで行き逢ったような気がしただけで」




