マグノリアの絆 第五回
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これは勅使河原美架から聞いた話である。
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都内の某高級住宅地の名を冠した高級食材店は、珍しく込んでいた。一週間ほど前の昼下がりである。彼女がこの場所に姿を現したのは、どこぞの高級な奥さまのための買い物だろうか。そんな疑問をぶつけたところ、
「プライベートです」
断言されたものだ。アメ横辺りの人込みにまぎれ、怪しげなスパイスを買い漁っているイメージが強いのだが。
「牛肉なんかを、たくさん買い込むわけではありませんから。例えば質の好いオリーブオイルが欲しいときは、あの店が最も手っ取り早いのです」
なるほど、彼女の買い物籠には、オリーブオイルの瓶がたった一つ、放り込まれていたと覚しい。
レジに並ぼうとしたとき、真後ろに人の気配を感じた。職業柄、背後に立たれることを、彼女は極端に警戒する。なぜそれが家政婦の「職業柄」なのかは、疑問の余地が残るが。しかもそれは「貴人の気配」だったと、後に彼女は述懐している。
「お先にどうぞ」
例によってにこりともせず、必要最小限の動きで身をかわして言ったのだろう。そしてカート越しに、後ろの人物へ目を向けたとき、彼女にしては珍しく、内心の驚きが少しだけ表情に出てしまったという。
ゆったりとお下げに編まれた白髪は、秀でた額の上で、真っ直ぐに切り揃えられていた。古典的な奥ゆかしさを宿した目は、常に「もの想ふ」ようで。瞳は色素が薄く、光の加減か灰色に見えた。瞬時、義眼ではないかと疑ったが、視線は明らかに自身へ注がれている。
きっちり三秒間が過ぎ、
「どうもありがとう」
軽く会釈して、老婦人は彼女が空けたスペースへカートを押して身を進めた。幽かに笑みを浮かべた唇は、果実らしい瑞々しさを失っていなかった。ほんのりと、薄化粧しているだけにもかかわらず。
テーブルの上に広げたままの写真集を指さして、美架は言うのだ。
「ちょうどこの人形が、椅子の上でそのまま年をとったら、あんなふうになるのではないでしょうか」
前にはまだ四、五人が並んでいるうえ、列はなかなか進まなかった。客たちは必ずしも高品質とは限らず、大量の値引き商品を籠いっぱい詰め込んだ者や、カートを玩具にしている小児を叱りもせずに、ご近所さんらしい女と声高にお喋りしている者が見受けられた。
美架の後ろにもすでに数名が並んでおり、無遠慮に買い物籠を覗きこむ視線が神経に障った。むろん、「たった一瓶のオリーブオイルを?」という非難を籠めた視線だ。そんな中で、目の前の老婦人が身に纏う静謐さは際立っていたといえる。
背はさほど高くないが、姿勢が好いため、立ち姿が竹久夢二の絵のように、すらりと美しい。かなり痩せてはいても、刺々しさはまったく感じられず、不思議と優美な曲線が、随所に生じている。最初に感じた「貴人の気配」は的を射ていたのであり、それゆえに、どこか反自然的な、人形めいた印象を与えるのだろう。
上品な藤色のコートにすっぽりと身を包み、絹と覚しい、薄手の手袋を嵌めていた。かつての貴婦人が、舞踏会で着用したような……ややあって、貴婦人は振り向いた。
「込んでいますね」
透明な声だ。さっき同様、美架はそう感じた。若やいだ色がない代わりに、枯れてもいない。そしてやはりどこか、人工的な。
「そうですね」
例によってにこりともせず、彼女が応じたとき、老婦人の瞳に初めて感情らしいものが宿った。それが軽い驚きであることに気づくまで、少しばかり時間を要した。
「あなたとは、どこかで……」
「はい?」
「いえ、ごめんなさいね。たぶん、私の勘違いだと思うけど。ちょっと知っている人みたいな気がしたものだから」
確かにいろいろと風変わりなので、一度この家政婦に会えば忘れられない。反面、忍者のように気配を消す術に長けているため、街中ですれ違った程度では気づかないだろう。美架のほうでは、どこぞの高級な顧客の家で、この婦人と行き逢った覚えはないし、もし一目でも見ていたら、確実に覚えていた筈だという。
会話がぷつりと途切れたまま、見るともなしに老婦人のカートを眺めた。ほぼ縁までいっぱいになっている、そのほとんどが缶詰か瓶詰であることに、あらためて気づいた。キャビアがありマッシュルームがありデミグラスソースがありアスパラガスがある。カピーという、タイ料理に使う特殊な調味料が彼女の目を見張らせた。
「袋は必要ありません」
ようやく順番がまわってきて、婦人はレジ係の女性にそう告げた。丁寧な言い草だったが、まるで侍女に命じるような、こなれた威厳が秘められていた。いかにも優雅な手つきで、財布からカードを取り出すときも、彼女は絹の手袋を外さなかった。




