マグノリアの絆 第一回
まるで残酷劇みたい。
◇
勅使河原美架の薬指に銀の指輪をみとめたときの、私の驚きはひとしお。もしそれが右手ではなく、左手に嵌められていたら、おそらく卒倒していただろう。
彼女が指輪をはじめとする、アクセサリーの類いを身につけているのを見た記憶など、夢にも存在しない。ただ、ある屋敷に彼女が雇われていたとき、主人に押しつけられた「制服」の胸に、ブローチが輝いていたが、あれは例外中の例外。そもそも、自分の意志でつけていたわけではないのだから。
その屋敷で、私とこの風変わりな家政婦は、初めて顔を合わせたわけだけれど……
現在、彼女には駒込にある私の部屋に、毎週木曜日に来てもらっている。生まれついてのずぼらな性分。週に一度くらい、他人に掃除させなければ、辛うじてDの字がつく二部屋が、たちまち妖雲たなびく魔境と化してしまう。
それもあるが、また別の要素を彼女に期待してのことだ。勅使河原美架には、二つの特異な才能があった。
ひとつは、奇怪な事件に巻き込まれ易いこと。
そしてもうひとつは、事件の謎を解く才能である。
三文だろうが十六文だろうが、作家は作家。モノカキのハシクレにとって、美架が提供してくれる素材は無尽蔵。いわばネタの宝庫であった。現に、私がK社の「妖」という雑誌に連載している「家政婦奇談」が打ち切りの憂き目に遭わず、そこそこに好評なのも、彼女のお陰にほかならない。
この小説に登場する「鹿苑寺公香」は、言うまでもなく美架がモデルとなっている。容赦なくデフォルメされているので、「本人」には世にも厭な顔をされたものだが。
「どういう風の吹き回しだい?」
世にも陳腐なセリフが口をついて出た。それくらい、驚いた証拠だ。
あたかも遅い秋の午後である。ちっぽけな部屋の窓も、穏やかな陽射しの恩恵にあずかっている。世の中は動いている筈だが、まるで休日のように騒音が途絶え、ときおり、列車が通り過ぎる音に、電柱から電柱へと伝う、ヒヨドリの疳高い鳴き声が唱和する。
散歩コースにあたる旧古河庭園の薔薇も、冬支度の鋏を入れられた頃だろう。それほど私は出不精で、めったに散歩にすら出なかった。
あれからもうすぐ、一年が経とうとしている。
「料理のときは外しますわ」
と、相変わらず彼女は素っ気ないが。
特徴的な「三白眼」が私を一瞥しただけで、ほとんど音を立てずに、紅茶のカップが目の前に置かれた。無表情で無愛想。彼女の笑顔というものを、私は思い描くことができない。
しかしながら、私の唐突な一言を、自身の指輪に向けられたものと正確に判断したのは理解できた。逆に言えば、彼女が掃除している間、私は同じ部屋でぶらぶらしていながら、この驚くべき変化に全く気づかなかったのだから、我ながら呆れるほかない。
(気づいて、ほしかったのだろうか?)
無粋な田舎者である私は、女性の服装や髪型を褒められない。と言うより、どこをどう褒め称えるべきなのか判らない。どうせ行き着く先は性欲なのだから、肉が食いたいくせに、レタスやトマトを褒めるのは虚しい。恋愛は性欲の詩的表現だと芥川は言ったが、僭越ながら私が思うに、恋愛は最も一般的な性倒錯ではあるまいか。
などという、身の蓋もないもの思いを余所に、好い香りのする薔薇色の液体が、目の前のカップに注がれていた。
「きみも少し、休むといい」
「お言葉に甘えさせていただきます」
自身の紅茶を用意して、美架はエプロンをつけたまま、私の真向かいに腰を下ろした。おのずから私の視線は、カップを持つ彼女の薬指に引き寄せられた。
極めてシンプルな銀の指輪だ。二匹のイルカが戯れているかのように、二つの流線型が軽く絡みあっている。
「いいセンスだね」
彼女へのお世辞ではない。無粋な私でさえ心打たれる「作品」としての魅力を感じた。美架は無言でカップを置くと、右手の甲を、私のほうへかざしてみせた。小さな、磨きこまれた銀色へと、再び視線が吸い寄せられる。
幾何学的でありながら、どこか艶めかしさを宿した曲線は、ヘンリー・ムーアの彫刻を想わせた。さらに顔を近づけると、ひたすら滑らかに見えていた表面に、細かな草花がびっしりと彫り込まれていることに気づいた。
私は背もたれに体をあずけた。
「驚いたね。ヤグルマギクにサクラソウ……ボッティチェルリの『春』に描き込まれた無数の草花は、一つ一つの種類まで見分けられるというけど。それを思い出したよ。しかもこっちは、桁違いにミニマルなんだから」
眩暈に似た感覚はまだ続いていた。
それは決して覗き込んではいけない異界の深淵を、底に咲き乱れる禁断の花々を、垣間見てしまったような恐怖を孕んでいた。事実、私の二の腕は見事に粟立っていたことだろう。




