ノウゼンカズラの家 第三十回(解答篇ノ五・最終回)
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次の木曜日、私の部屋を訪れた家政婦は不機嫌を極めた。
もとより愛想はよくないし、苦情を並べるわけでもない。いつもどおり粛々と働くのだが、動作の端々に植物的な棘が、見え隠れするようだった。
彼女の不機嫌は、料理に如実にあらわれていた。
何の変哲もないナポリタン。このような「和食」は珍しいが、彼女なりの工夫が凝らされている。たとえば最初にオリーブオイルで大蒜と唐辛子を炒めるという、基本は守る。またソースを絡めるときは、決して麺を火にかけない。炒めた時点で、それはスパゲティではなく焼きそばだと、いつか彼女は言っていた。
タマネギとピーマンとベーコンから成る具を別に炒めたり、ケチャップではなくトマトの水煮缶でソースを作ったり。粉チーズとパセリが振られたあと、わざわざ一つだけ焼いたタコウインナーが鎮座している、「お約束」も外さない。
一見、どこにも彼女の不機嫌を示すシグナルは、あらわれていないようだった。そう、食べてみるまでは。
「す、すまないが、み、水を一杯くれないか」
ぴりぴりと舌を刺す激辛が、逃げる美味に追いすがり、第四コーナーから四馬身ぶっちぎりで先頭に立った。あらかた食器を洗い終えた彼女は、エプロンで手をぬぐい、わざとゆるやかな動作で、水を運んできた。
「また唐辛子をぶちまけたの?」
ようやく口がきけるようになり、そう言ったところで、あからさまに眉根を寄せられた。先頃の密室殺人。彼女の失踪の原因となった事件は、唐辛子が思わぬ鍵となった。
「仕事を終えたんなら、お茶を一杯つきあわないか」
断られるかと思いきや、無言で湯を沸かし始めたので、いささか胸を撫でおろす。運ばれてきた紅茶に、まさか毒は入っていまいが、彼女が先に飲むまで用心していた。
カップをソーサーごと宙で支えたまま、彼女は三白眼を鋭く向けた。
「何か?」
「いや……この間は、すまなかったね」
「構いませんわ」
十二分に不機嫌ではないかとは、さすがに口にできないまま。代わりに、ひとつ気になっていたことを尋ねてみた。
「あの服は、自前なのかい」
「服とは?」
「博物館で着ていた。もし公香を演じるために、わざわざ買ったのなら、気の毒だなと思って」
普段着の彼女が真紅のピンヒールを履いているなんて、想像できない。
「請求してもよろしいのですか」
「あ、うん。もちろんさ。レシートか、できれば領収書をもらえるかな。取材費ということで、出版社にかけあってみよう」
「そのことなのですが……」
ほとんど音をたてず、カップを置いた彼女の、不穏な目つきに射すくめられた。
「鹿苑寺公香への報酬は、いつ支払われるのでしょう」
「ああ」
首を絞められたような声を、私は上げた。彼女の言うとおり、「現実に」公香を呼び出してしまった以上、文字どおり、タダでは済まないことになる。
返答に窮している私の上に、彼女の声が鉄槌のように響いた。
「冗談ですわ」
表情ひとつ変えず、カップを持ち上げるのだ。沈黙が、時計の音を際立たせた。一応、少しは機嫌が直ったということか、これも厭がらせの一種なのか、まったくわからないが。とりあえず会話の糸口はつかめた気がした。
彼女に聞いておきたいことが、あと二つ、残っていた。
「例えば……例えばなんだけど、今後、時嶋サエが、コズエと再会することは可能だろうか」
少しの間のあと、カップの後ろで唇が動く。
「そのことを、時嶋さんが望んでいらっしゃるのですか」
「可能性の問題さ。コズエが会っていた男は芸術家だと、きみは、いや、公香は言ったよね」
「わざと婉曲的な言い廻しをした、と」
「まあ……」
芸術家と犯罪者は限りなく近しい。すべてがそうでないにせよ、みずからの願望の捌け口として、血みどろの推理小説を書いている作家を、一人知っている。無防備な少女が「犯罪に巻き込まれた」可能性は、どうしても拭えない。
半分に減った紅茶を見つめたまま、彼女は言う。
「仰言るとおり、可能性の問題ですわ。物理学者の飼い猫ではありませんが、箱の中身を見ることができない以上、芸術か犯罪か、二つの物語は同時進行で存在するわけです。もし私の言葉に、少女を少しでも幸福にする力があるとすれば、迷わず前者を選びたいと思います」
物理学者とはもちろん、シュレーディンガーを指すのだろう。柄にもないことを言ったと、自身恥じたのか。彼女は残りの紅茶を飲みほし、いそいそと帰り支度を始めた。
「訪ねたいことがあと一つ、残ってるんだけど」
聴こえなかったのか、カップを洗いながら、返事がない。私は構わず続けた。
「今回のエピソードも『妖』に書こうと思うんだ。それで時嶋サエと話し合って、合作にしようと決めたんだが」
「宜しいのではないでしょうか」
相変わらず背を向けたまま、ちゃんと聞いていたことだけは、確認できた。
「ところが、ここに一つ問題が生じてね。きみは現実に鹿苑寺公香として登場したわけだから、これはフィクションでなくなってしまう。でもきみからは、あくまで架空の人物として描く許可しか得ていないんだ」
きゅっと蛇口をひねって、彼女は振り向いた。
「宜しいのではないでしょうか」
表情ひとつ変えず快諾すると、エプロンの結びめを揺らし、踊るような動作で向き直った。スカートが舞うさまを、私は呆然と眺めた。
「では先生、私はこれで失礼させていただきます。お茶の時間に遅れますので」
いま飲んだばかりではないか、と口をはさむ隙も与えず、彼女はすでに身をひるがえしていた。
勅使河原美架のウィンクというものを、初めて見た気がした。(終)




