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ノウゼンカズラの家 第二十九回(解答篇ノ四)

 また、眩暈。

 重厚な質感で、背後から私を私を支えていた手すりが、突然消えたような錯覚に見舞われた。そのまま何もない空間に放り出され、墜ちてゆくのでもなく、かといって飛翔することもできず、ただ呆然と浮かんでいるような。

 消滅する塔の中に棲んでいるとしたら、ちょうどこんな感覚を味わうのだろうか。

 私同様、言葉の出ないサエの前で、公香は続けた。

「新学期を迎えたあなたは、体がまだ本調子でないことを自覚していました。クラスメイトの顔が同じに見え、ただ、担任が急に変わっていたことを知りました」

「じゃあ……」サエの声は、乾ききっていた。

「ええ。当時あなたは、なかば自分の中に閉じ籠もり、クラスでのコミュニケーションを放棄していた。そうですね? 親しく会話する子もいなければ、周囲への興味も失せていた。そのうえ高熱の影響で、いわば霧のようなフィルターを透して、周りの情景と接していたのだと思われます」

「じゃあ、私は引っ越し先の小学校を、以前通っていた学校と思い込んで……?」

「あるいは無意識に、思い込もうとしたのかもしれません。心のどこかで、あなたが両親の離婚を認めたくなかったように」

 心もち身を仰け反らせた公香は、ウェイト版タロットカードの「愚者」を想わせた。自身の発する言葉が自身を鞭打つかのように、かすかに身を震わせながら。彼女は続けた。

「また、場所はかけ離れていても、そこは日本じゅうにありふれた、都市部でもなければ、農村でもない、以前と同じ規模の町でした。あなたにかけられたフィルターは、共通点を強調し、相違点をぼかして見せました」

「でも、方言の問題がある」

 覚えず私が口をはさむと、鋭い一瞥が返ってきた。自作の登場人物に睨まれるというのも、変な感触だ。

「繰り返し、ボイスレコーダーをお聞きになったのですよね、酒井先生。覚えておいででしょうか。コズエという少女が学校にいないことを知らせた、父親がPTAの役員だという女の子を。彼女は、方言ではありませんでしたよね」

「ああ」私は間の抜けた声を上げる。

「それにもともと時嶋さんは、お母さんの影響で標準語を話していましたから、フィルターで消せないほどの違和感ではなかったはずです」

「わかってきた……気がします」

 壁の前のベンチに、サエは気抜けしたように腰を下ろした。こめかみを指で押さえたまま、独白するように、つぶやくのだった。

「植え込みの後ろで、私が見つけたもう一つの公園。あれも、コズエと行った公園とは別々の場所だったのですね。もう一度コズエと手をつないで、あの場所へ行ってみたい。そんな願望が見せた幻……いいえ、偶然そこに似たような光景があったのは、確かなのでしょう。雑木林の斜面に面していて、廃工場のようなものが、林の中に取り残されていたとしても、何の不思議もありません。ただそこを私は、あの家……ノウゼンカズラの塔のある家だと思い込んでしまった」

 塔が、消滅していたにもかかわらず。

 髪を掻き上げながら、時嶋サエは顔を上げた。苦悩の痕のように、蒼ざめた額の上で前髪が乱れた。

「そう、でも確かに海が見えたのです。セルロイドの人形に驚いて、斜面を駆けおりて行く途中で。コズエを最後に見た時と同じように。ですが、母と二人で引っ越した先は、西武球場の近くだったことに、間違いありません。東京か埼玉か、いずれにせよその境界からでは、海は見えないでしょう。あれも、私の願望が見せた幻だったのでしょうか?」

 彼女を見下ろしたまま、公香は悲痛な面持ちで、首を振ってみせた。

「おそらく第二の海の正体は、狭山湖でしょう」

「あっ」

「そしてあなたはそのとき、蝉の声を聴いている。でも九州にミンミンゼミは棲息していないのです」

 反対側のフロアで、少女たちの笑い声が響いては、消えた。膝の上で固く組み合わせた手に、サエは視線を落とした。

「私は再び熱を出し、次に快復した時から、ようやく現実を現実として、受け入れ始めたのですね。ある意味、廃工場でのショックが、私を夢の中から目覚めさせたのかもしれません。そう考えると、やっぱりコズエは……」

 夢の中にしか棲むことのできない、“野生のもの”だったのかもしれない。

(さよなら、ごめんね)

 もたれていた手すりを離れて、公香はなぜか、呆然と立ち尽くしているように見えた。もともとよくない顔色が、さらに蒼ざめて、唇を固く結んでいた。鹿苑寺公香という、私が押しつけた役柄に耐えるのも、このあたりが限界なのだと理解できた。

 探偵という、彼女が最も忌まわしく感じる役柄に。

 視線に気づいたのか、うなだれているサエから私のほうへ、彼女はゆっくりと顔を向けた。

「では先生、私はこれで失礼させていただきます。お茶の時間に遅れますので」

 茶の時間に遅れる、とは、これも鹿苑寺公香の去り際の決め台詞だ。かろうじて最後まで演じきると、コートの前を合わせて背を向けた。

 回廊を歩み去る赤いピンヒールの靴音は、どこか虚ろな響きを引きずっていた。

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