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ノウゼンカズラの家 第二十七回(解答篇ノ二)

 不意に視線を感じて、私は覚えず振り返った。科学博物館、三階北館の入り口から、フタバスズキリュウの頭骨が覗いていた。もの想いに耽るように、あるいは、ありし日の記憶を反芻しているように。

 それは無数の血の帯を引きながら、昏い海底へ沈んでゆくときの記憶なのだろうか。

(ふうん。これ本物? どうしてここに二つあるの)

 先程の女の子の一言が、鮮明に思い返された。それは私の夢に何度もあらわれた、コズエの声にほかならなかった。

 ぎょっとする思いで、展示室の奥へ目を走らせたけれど、いつのまに出たのか、母娘の影も形もない。

 まったく異なる、二つの家が存在したのだと、公香は言った。

 二つの家は、空間的にもかけ離れているのだという。頸長竜が発見された福島県と、レプリカが展示されている、ここ上野の博物館ほどに。いや、それ以上に。

 しかし、そんなことが……

「順を追ってご説明しましょう」

 鹿苑寺公香は手すりを離れ、回廊に沿って数歩行き、また片手で軽くもたれた。反対の手で、耳の横の髪を漉いた。混乱したのか、どこか蒼ざめて見える時嶋サエは、無言のままだ。

「コズエという女の子が実在したことは、まず疑う余地がありません。みずから遅刻魔だと名のり、同じく遅刻するようになっていたあなたと、毎朝顔を合せるようになった。コズエとあなたは気が合った。事情や、それに対する感情のあらわしかたは異なるけれど、二人とも、家庭の問題で悩みをかかえていた」

 サエを見つめたまま、彼女は言う。「美架」と異なり謙譲語や丁寧語が少ないので、ざっくりと確信へ切り込んでゆく緊迫感がある。

 まるで永い年月をかけて、時嶋サエが心の中に紡ぎだした複雑な繭を、残酷なメスさばきで切り開いてゆくような……彼女がうなずくのを確認して、公香は続けた。

「コズエの家は父子家庭らしかった。土木の職人である父親は、一種歪んだ愛情で、娘に接していたフシがある。父親の溺愛が娘を傷つけ、孤立させる要因になっていた。まぎれもなく、溺愛という名の虐待でしょう。けれどもコズエという少女は、ずいぶん我慢強い、健気なうえに夢見がちなところがあった。ただ……」

「いくら健気でも、孤独とはあまりにも哀しく、つらいものです。自分は独りぼっちなんだ、それでいいんだと、いくら言い聞かせても、楽しげに戯れあう“友達”が、決して自分の友達でない友達が、周りで笑いさざめいているのですから。かれらが楽しげに見えれば見えるほど、かれらの笑顔は氷の刃となって、孤独な心を傷つけます」

「そこへある朝、あなたが現れたのです」

 再びサエはうなずき、公香は語を継いだ。

「失礼ながら、あなたの両親の関係は当時、極限まで冷めきっていた。お互い、自身の苦しみにかかずらうのが精いっぱいで、家庭という機能はほぼ麻痺していた。急速に他人と化してゆく父親と、自身の内に閉じ籠もる母親と……おそらくあなたのお母さんは、そんな自分に激しい罪悪感を覚えていたのでしょう。だからあなたに食事だけは作り続けた。それが精一杯だったけれど」

「私もそう思います。飄々としたところのある父と違って、とても責任感の強い人でしたから。壊れてゆく自分が許せなくて、苛むあまり、よけい壊れてしまったのだ、と」

「あなたにも似た一面があるから?」

「大人になって、やっとわかったことですけど」

 オトナという一言が、心なしか自嘲的に響いた。公香は三白眼をしばたたかせ、逆方向へ回廊を数歩、辿った。少し上体を逸らすように、ステンドグラスを見上げて言う。

「ある朝あらわれたあなたが、コズエにとってどれほど嬉しい存在だったか、あなたの想像以上でしょうね」

「私以上に、友達が、欲しかったのでしょうか。でも朝の時間帯以外、学校でコズエを見かけることはありませんでした。なぜ話しかけてこなかったのでしょう」

「想像に過ぎませんが、怖かったのだと思います」

「怖かった?」

「ええ。学校という、無慈悲な現実。自身に孤立を強いている味気ない場所で、あなたと顔を合せることが。朝、あなたと逢える喜びまで、たちまち壊されてしまいそうで」

 何となく、私にも少女の気持ちが理解できた。哀しみの多い人間にとって、喜びはあまりにも壊れやすく映る。公香は言う。

「とくに夢見がちであったろう、コズエはあなたとの出会いを神秘的なものに感じていた。その時間、その場所でだけ、神秘は実体化されなければならなかった。ちょうどあなたが、コズエを異世界の存在である“野生のもの”とみなしていたように」

「あっ……」

「コズエにとっても、あなたは妖精に等しかったのです」

 お互いを、神秘化し合っていたというのか。二人の幻想は相乗効果を生み、二人の少女はいつしか知らずに、夢を共有し合っていた、と。

 鹿苑寺公香は続けた。

「だから、コズエは極力、学校であなたの目に触れないように努めていた。あなたのほうでは、これまで意識しないまま顔を合せていたにせよ、朝の奇妙な出会いを果たして以降は、確かに学校にいる筈の、彼女の姿が見えなくなった。こうしてコズエという妖精が誕生し、夏休みを迎えます」

 夏空に描かれたコガネグモの巣が、私の脳裏をかすめた。

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