ノウゼンカズラの家 第二十五回
「鮫が、自身より何倍も大きな生き物を襲うことってあるのでしょうか」
また誰に言うともなく、彼女はつぶやいた。
「さあ」
「でも、かれは」
「かれ?」
「はい。私には雄に見えるのですが、かれは生きながら無数の鮫との死闘のすえ、鮮血の尾を何本も引きながら、沈んでゆく姿が似つかわしく思えます。そうして海底が隆起し、氷河が消えたあと、森の中でせせらぎを聴きながら眠っていたのですね。一人の少年に発見されるまで」
長大な骨を見上げたまま、彼女は唄うように口ずさむのだ。文章家なだけに、いやモノカキを自称する私には及びもつかない力で、詩的言語がおし出されてゆく。
語り部、という語を思い起こさずにはいられない。それは「文章家」とはまた異なる、ひとつの才能なのかもしれない。たとえば「古事記」は、巫女の口から滔々と語られたという、そんな説を想わせる呪術的な能力……たしか私は、奇怪な過去を語り続ける彼女を、卑弥呼のようだと感じなかったか。
「疑問を解いてくださると聞きました」
彼女は同じ姿勢のまま。フタバスズキリュウの死と再生を唄ったときと同様、淋しさが含まれる口調だった。
「ええ。ですが、みか……いえ、鹿苑寺からはただ」
「“可能性は一つに絞られた”」
「は、はい。そう聞いただけで、じつは私も真相は知らされていないのです」
私は覚えず噎せかけた。可能性云々は、「鹿苑寺公香」が謎を解いたときの決め台詞で、美架ならそこまでもったいぶった言い方はしない。
「先生の小説のとおりなのですね」
虚構と現実。二人の家政婦探偵の性格には、かなり開きがある。なにぶん大衆小説なので読者サービスは必要だし、モデル自身、忠実に描写されることを好まなかった。ショートヘアで無愛想で三白眼で顔色がよくない。そこまでは同じだが、言動はずいぶんデフォルメされている。
たとえば、限りなく時間にルーズだったり、ワーグナー狂だったり、サドの愛読者だったり、靴フェチだったり。不思議は美しい、という例の台詞を吐くときは、必ず「タンホイザー」序曲を大音量で流すとか。
謎解きに際しても、サディスティックなまでに、もったいぶるのを好む。モデル自身はといえば、不思議を暴く行為が常に苦痛だから、口が重くなっているだけなのだが。
(日曜日はできるだけ、鹿苑寺公香っぽく振る舞ってくれる?)
さりげなく懇願すると、美架はあからさまに厭な顔をしたものだ。
(必要なのですか)
(彼女も読者だからね。イメージと異なれば戸惑うだろう?)
どれくらい納得してもらえたか、心もとない限り。とりあえず、時間にルーズという“キャラ”に合わせて、もともと几帳面な彼女を騙しておくのがやっとだった。
「鹿苑寺公香」があらわれたのは、午後一時三十分ちょうど。
これは“中の人”の流儀ではないから、私の魂胆は見抜かれていた可能性が高い。
「はじめまして。鹿苑寺公香と申します」
入り口にたたずみ、頭を下げた。彼女の服装に、まず目を見張らずにはいられなかった。
オフの時間帯は別人のように奇抜である、と小説に書いた。薄手のトレンチコートの前を開いて、ぞろりとした白い長袖シャツにショートパンツ。襟のないシャツの胸には、ネパールの国旗が麗々しく刷られていた。
それにしても、彼女のショートパンツ姿など初めて目にした。星のラメの入った黒いストッキングの上に、真紅のエナメルも眩しい、赤いピンヒールを履いていた。髪型がいつもどおりでなければ、危うく別人と見紛うところ。
生真面目に小説を読み込んでいることに感心するが、さぞかし厭々着たことだろう。後ほど、たっぷり苦情を聞かされるに違いない。硬直している私の隣で、時嶋サエはにこやかに歩み寄った。感動を隠せない様子で、握手まで求めている。
「先生の小説で、ご活躍はいつも拝見しております。率直に言って、大ファンなんです。私が思い描いていたとおりのかたなんですね」
無表情という“設定”は残したので、笑顔を返す必要がないのは、せめてもの救いか。
「わあ、恐竜だ。恐竜だ」
いきなり七、八歳の女の子が駆け込んできて、歓声を上げながら骨を見上げた。付き添いらしい人物が、いつまでもあらわれる様子はなく、手すりから身を乗り出す少女を、私は訝しく見下ろした。
「福島県で見つかった骨なんだって。川岸に埋もれてたのよ、こんなふうに」
サエが少女の視線まで膝を折り、囁くように話しかけていた。彼女らしからぬ行動だが、独りぼっちの女の子を、放っておけなかったのかもしれない。
過去の自分を思い出すから……
「ふうん。これ本物? どうしてここに二つあるの」
「二つとも模型なの。でもこうして、ちょっと離れたところから眺めるぶんには、本物を見てるのと同じことね。下のように埋もれていたのを、生きているときみたいな姿に繋いだのが、上で泳いでるの。ちょっと足りない骨もあったけど」
「どこが?」
「長い頸と尻尾が。でもたぶんこうなっていただろうと、想像して繋いであるのね」
やがて母親とおぼしい女が、スマホを片手に入ってきてた。慌てた様子でサエに頭を下げ、独り歩きしないよう娘を嗜める。少女はけれど、気にするふうもなく、今仕入れたばかりの知識の披露にかかる。
「外で話しましょうか」
美架に促されて、三人とも回廊へ出た。重厚な手すりを背に、軽くもたれる仕草は、これも「美架」にはないものだ。あくまで「公香」を演じてくれるつもりなのだろう。
まるで待ち伏せていたように、目の前にサエが立ったとたん、鹿苑寺公香は鋭く言い放った。
「少なくとも潜在的に、あなたは気づいていらっしゃるはずです。なぜなら、今の女の子との会話の中に、真相がすっかり含まれていましたから」




