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ノウゼンカズラの家 第二十四回

  ◇

 大正時代の建造物であるという。

「上野の博物館」と私が気安く呼んでいる、国立科学博物館の本館は、それだけで六百何十円かの、私にとっては決して小さくない入館料を支払わせるだけの魅力はあった。

 博物館へ行くなら平日に限る。子供がいないからだ。

 ルイス・キャロルほど筋金入りではないにせよ、私は男の子というものが殊更苦手である。隣接する動物園ならともかく、こういった文化施設において、かれらはあからさまに居場所のなさを露呈する。知的好奇心というものから、なぜこうまで、かれらは隔たってしまうのだろう。

 かれらが唯一興味を示すのは、ネアンデルタール人の復元模型のあらわな陰茎ばかりであるかのようだ。

 そしてこの日は、あいにくの日曜日。上野駅の混雑を想像するだけで気が重かったが、他日では時嶋サエの都合がつかないというから、致し方ない。「霊異研究家」は、私ほど暇人ではないらしい。

 彼女とは午後一時に、本館の三階で落ちあう約束になっていた。

 D51と、白くないシロナガスクジラの間の階段を降りた。切符売り場に入ったとたん、強烈なカレーの匂いが漂ってきた。いかにもひと昔前のレストランを想わせる匂いは、“家族連れ”という言葉に直結し、私の気をさらにいささか重くした。

 家族のいない私にさえ、この匂いは重くのしかかってくる。これから会うはずの時嶋サエにとっても、同様ではあるまいか。

 いや、私の想像以上に、彼女は傷つけられていたのかもしれない。家族という名のシステムに。彼女が語った、奇妙な話の根本部分に、両親の離婚による心の傷が、痛ましく根を下ろしているような気がしてならないのだ。

 彼女はいまだ独身で、離婚歴もなかった。

 カレーといえば、エスニック狂のくせに和製カレーを作りたがらない女を一人知っている。必ず自身でスパイスを調合し、原則としてポークとビーフを用いない。牛はヒンドゥー教で聖視されているし、イスラム教では豚を忌む。この二つの宗教の信者が大多数を占めるインドの料理に、豚と牛を用いるのは「不自然」だからという。

 家政婦を職業としながら、彼女自身は生活感があまりにも希薄である。家族と暮らしているとは、ゆめゆめ思えない。彼女の孤独壁が生来のものなのか、知る由もない。あるいは彼女もまた、“家族”に疎外された過去を持つのかどうかも。

 彼女は本日、「鹿苑寺公香」として登場する手筈になっていた。

 現在ここは“日本館”と呼ばれ、近代的な新館は“地球館”であるらしい。ナウマンゾウの化石を見たのは新館だったので、この大正浪漫の風香る本館に足を踏み入れるのも、ずいぶん久しぶりな気がする。

 アール・デコというのだろうか、花にも見える巨大な幾何学模様のタイル。中央ホールを横切ると、例によって“フーコーの振り子”が揺らめいている。ひと抱えはある金属球の周りに人だかりができているのも、日曜ならでは。素通りして階段を上り、三階に出たところで、覚えず胸を撫で下ろした。

 上野の博物館は、やはりこうでなくては。たしかに多少の人出はあるが、界隈の人込みから取り残されたような静けさを、乱すほどではない。やはりここは、都心で数少ない「私の場所」の一つであるようだ。

 眉を顰めたくなるような、男の子の姿もない。地球館のほうなら、エスカレーターがあり、Tレックスやトリケラトプスの化石標本があり、本物の零戦があり、ネアンデルタール人の陰茎も見られる。家族連れの大半は、そちらで消費されるものとおぼしい。

 小学校高学年くらいか、内気そうな二人組の少年が、鉱物標本に見入っているさまを、好もしく眺めた。博物館とは、孤独と親しむ術を身につけた者だけが、愉しめる場所なのかもしれない。

 中央ホールは天井まで吹き抜けで回廊が巡る。当然、例の幾何学模様はここから見下ろすことができる。その南北に、翼状に伸びる棟が展示室となっている。回廊に据えられた、重厚な木製の手すりを背に、北の棟の入り口の前に立つだけで、かれの威容が垣間見られた。

 フタバスズキリュウの化石標本が、ここにひっそりと置かれていることを、私はおおいに評価したい。もし新館でTレックスなどと並べられては、風格も風情も出ないから。

 クラシックな天窓の下。やわらげられた陽光と人工光を半々に浴びながら、かれはゆったりと泳いでいた。かれ、か彼女か本当はわからないけれど、長い頸を悠然と傾けた姿はいかにも雄々しく感じられた。

 骨格標本の下には、頸長竜が発見されたときの、半ば埋もれた骨が再現されていた。その前の手すりに軽くもたれて、独りたたずむ女の背中がある。

「無数の鮫の歯が、一緒に見つかったそうですね」

 並んで立った私に目を向けるでもなく、彼女はぽつりとつぶやいた。髪を頭の後ろで束ね、黒ずくめのやはり地味な身なりだが、襟ぐりが大きく開き、レースで縁どられているさまが、私をはっとさせた。凝視したつもりはないが、レース越しに黒い下着の肩紐が覗いた。

 時嶋サエは語を継いだ。

「骨に食い入っていた歯も少なからずあったとか。生きたまま襲われたのか、それとも死体に群がったのか、わからないみたいですが」

 こちらへ目を向けた。あの「告白」を聞いて以来、もちろん初めて顔を合せたことになる。あのときは、どこか焦点がずれているように感じた、彼女の瞳は心なしか、重く潤っているようだった。

「私のほうから頼んでおきながら、無理を言ってすみませんでした。鹿苑寺さんは?」

「間もなく来ると思います」

 もし「勅使河原さん」ならば、必ず先に着いて待っていただろう。だからこれは「鹿苑寺公香」を小説の登場人物らしく見せるための、もったいぶった私の演出である。彼女にはわざと三十分遅い時間を指定してあった。

(解けましたわ)

 あれは私の空耳ではなかった。

 時嶋サエの奇怪な記憶にまつわる謎を、彼女はホットサンドを作っただけで、解いてしまったというのだ。

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