ノウゼンカズラの家 第二十三回
「ホットサンドでよろしかったでしょうか」
また遠くの電車の音が、やけに大きく響いた。それほど、今夜はなぜか静かに感じられる。彼女の何でもない一言に、覚えず驚かされたほどに。
時嶋サエに憑き纏っているという暗闇が、静寂をともなって、この部屋に忍び寄っているかのように。
「ああ、うん。夕食ではなく、夜食か。そいつをわざわざ作ってもらうというのは、何やら背徳的な快楽に属するね」
「要するに?」
「ココロときめく」
ちょっと肩をすくめて、美架はキッチンに向かった。低く洩れてくる鼻歌は意外に音程がずれていない、いつもの「タンホイザー」序曲である。教科書にも載っている「沙石集」のエピソードを引くまでもなく、夜食はオトナの快楽であろう。
卵を茹でている間に、彼女は“スパム”缶を開けた。背徳といえば、缶詰にもまた、反自然的な魅力がある。日本人にはいまひとつ馴染が薄い、このアメリカ渡来のポークランチョンミートなどは、得体の知れなさからして、缶詰らしい面白味があろうか。豚挽き肉を牛乳蛋白で固めたものだそうで、米軍基地のある沖縄ではポピュラーな食材と聞いた。
ピクルスは彼女手製のものが蓄えられている。人参の赤や胡瓜の緑など、透明な瓶の中で見た目も美しい。これと茹で上がった卵とスパムを、すべてみじん切りにしたうえ、マヨネーズ和え。次にフライパンが温められている間、彼女はカットしたパンの片側にバターを塗った。これを外側にして具材をはさむと、フライパンに並べたとき、ふんわりと、バターのよい香りがした。
鍋蓋で上から軽く押しながら、焼き色をつけるようだ。
新たに紅茶が淹れられた。ホットサンドはレタスを枕に、縦長の皿に並べられた。
「うん。じつに背徳的だ」
私は舌鼓を打った、という陳腐な表現に尽きよう。
ボイスレコーダーは時嶋サエの声で、再び語り始めていた。ソーサーごと持ち上げたカップを時おり口へ傾けながら、彼女はテーブル上の、どことも知れない一点を見つめていた。
あとの話は、そう長くはなかった。
録音が終わると同時に、彼女はカップを置いた。特徴的な三白眼を、大きくしばたたかせた。
「どう思う?」
我ながら性急すぎる気がしたが、覚えずそう尋ねていた。押し黙ったままの彼女から、少なくとも例の決め台詞は、返ってこないらしいことが理解できた。不思議ですわ。という言葉を、私が心のどこかで期待していたにもかかわらず。
夜食が僅かに取り戻した日常は、ちっぽけな機械が再生する闇に、再び覆われたかのようだった。たっぷり五分間ほど黙したあと、ようやく彼女は口を開いた。
「時嶋サエさんは、どんなかたですの?」
内心、胸を撫で下ろす思いで、私はわざとサンドウィッチを頬張りながら言う。
「まあ、面識といっても、かろうじて顔と名前が一致した程度だし。“霊異研究家”という肩書しか知らなかった。あんなに長時間話したのは、この間が初めてだよ。といっても、ほとんど彼女の独り語りを、聞かされただけなんだけどね」
「霊異研究家としては、どんな活動をなさっているのでしょう」
「『妖』に、たまに寄稿してるよ。きみの分身が載ってる、例の雑誌さ」
少々、眉をひそめたばかりで、彼女は私の皮肉を黙殺した。
「どのような?」
「よくある怪奇実話さ。おれも堀川に頼まれて、たまに書かされるような。ただ彼女の原稿は、前半部分で怪異を語り、後半は延々と考察にあてられているのが特徴かな。研究家としてのスタンスなんだろうね」
「百物語評判のような?」
美架が例に挙げた「古今百物語評判」は、数ある江戸期の怪談集の中でもちょっと毛並みが違っている。物識り先生が、問われるままに、様々な怪異の原因を解き明かすというもので、むろん現代の見地からはお世辞にも科学的とは言い難い。が、むしろそこがいい味を出している。
「まさにそんなイメージだね。バックナンバーを漁れば見つかると思うけど、読んでみる?」
「いえ、酒井さんの見解をお聞きしたいのです」
「うーん、民俗学的に、時には科学的に、彼女が怪異を解き明かそうとすればするほど、読者はより深い迷路に分け入らされる。気がつけば、ありふれた怪談噺に過ぎなかったものが、複雑怪奇なバックグラウンドに溶け込んで、凄絶な怪奇コンチェルトの様相を呈してくる、といった感じかな」
「協奏曲、ですか。酒井さんは、比喩が巧みでいらっしゃいます」
褒められたのかどうかわからないが、私は単純に気を好くした。頬杖をついて、美架がもの想いに耽っている間に、残りのサンドウィッチを平らげることにした。
「じつに旨かった」
「え?」
覚えず感嘆の声を上げると、夢から覚めたように、美架はまた、三白眼をしばたたかせた。
「具材のとろけるような食感に、何と言ってもバターが効いてる。フライパンに油を引くわけではないんだね」
褒めちぎられるのを好まない彼女にしては珍しく、くすぐったそうに肩をすくめた。
「はい。そのかわり、パンの“外側に”バターを塗ったのです。ちょっとした違いなのですけど、これだけで食感がずいぶん違ってきます」
「なるほどね」
「普通、フライパンを用いる時点で、下に油を引くものと思い込みますものね。ちょっとした……違いなのですけど」
終わりのほうは、ほとんど独り言のように聞こえた。
そうして、人さし指で下唇を左から右へ、軽くなぞるのを見た。
これは勅使河原美架の頭脳が、フル回転している時の癖にほかならない。
「……ましたわ」
「えっ」
「お茶をもう一杯、ご用意いたしましょうか」
席を立つ彼女を呆然と目で追いながら、ひたすら我が耳を疑っていた。
解けましたわ。
たしかに私には、そう聞こえたから。
料理は長島亜希子「私のアメリカ 家庭料理」を参考にしました。




