ノウゼンカズラの家 第二十二回
◇
(さよなら、ごめんね)
◇
「そこで停めてください」
美架の声はあくまで静かだったが、私はびくりと、肩を震わせずにはいられなかった。
小さなスピーカーから流れる、時嶋サエの声は続いていた。
喫茶店で直に聞かされ、録音されたものを独りで何度も再生し、あらためて今、美架と二人で耳を傾けている。だから、サエの話を私以外の人間と聞くのは、これが初めてということになる。
(まだほとんど、誰にも話したことがないんですけど……)
「霊異研究家」は、たしかにそう言ったはずである。
私はようやく、ボイスレコーダーを停めた。サエの言葉が紡ぐ異様な世界が、現実には、ちっぽけなスピーカーから発せられていると認識するのに、骨が折れたから。
遠くを列車が通り過ぎた。
美架は両肘をつき、軽く組み合わせた両手を片頬にあてていた。あたかも瞑想するかのように、半分閉じた瞳が、銀色の光沢を見つめていた。
沈黙は五分も続いた。彼女が目を開くのを待って、私はおずおずと切り出した。
「続きはそう長くないよ。ただ、本来の謎が語られるのは、このあとみたいだけど」
「不思議ですわ」
ほとんど聞き取れないほどの声が、唇から洩れた。次にやおら彼女は立ち上がると、二歩、歩いて立ち止まり、私に背を向けたまま、やや顔を仰向け、唄うように口ずさんだ。
きっぱりいいきろう。
不思議はつねに美しい。
どのような不思議も美しい。
それどころか不思議のほかに美しいものはない。
アンドレ・ブルトンの「シュルレアリスム宣言」(巌谷國士訳)の一節である。よほど気に入っているのか、勅使河原美架が謎に直面し、それに興じたとき、必ず一度は口にする言葉だと思っていい。
いつのまにか、彼女は背もたれにかけていたエプロンを、結びなおしているところ。
「お茶がすっかり冷めてしまいました。淹れなおしましょう。そろそろお腹も空かれたでしょうから、軽くサンドウィッチでも召し上がりませんか」
「それはありがたいけど。お終いまで聞かなくてもいいのかい。さっきも言ったとおり……」
「本来の謎はこれから語られる」
そう言って目を落とした表情が、なぜか淋しげに見えた。彼女は語を継いだ。
「そうですね。コズエという少女は、ここでいなくなってしまう。ノウゼンカズラの塔の中に、謎めいた“異人”に連れられて」
私は息を呑まずにはいられなかった。彼女が軽く引用した赤い靴の童謡は、同じ野口雨情の詞による、「青い眼の人形」を連想させずにはいられない。けれども美架はまだ、サエの話の続きを聴いていないのだ。
ノウゼンカズラの塔ごと消えた廃墟で、コズエを想わせる少女人形が、壁の前にぶら下げられていたことを……美架は言う。
「おそらく、ここが夢の終わりなのです」
「ならばきみは、すべて時嶋サエの妄想だったという結論を得たのかい」
サエ自身、そのことを疑い、悩んでいた。けれども私には、どうしても納得ゆきそうになかった。たとえ何度もその推理力に驚嘆させられてきた、「家政婦探偵」の見解と一致したとしても。
事実、「鹿苑寺公香」は静かに首を振っていた。
「そうではありません。コズエという女の子は実在したのだと思います。名前を偽ったりも、していないのではないでしょうか」
しかし、と反論しかけて、言葉に詰まった。
それっきり少女が「消えてしまった」ことは事実らしいのだ。幼いながらも、真摯で着実な調査によって、サエはそのことを確かめている。だとすると皮肉なことに、妄想、という、一度は封印したはずの魔物が、黒雲の湧くように蘇ってくるのを、どうすることもできないではないか。
しかも美架はまだ「結末」を知らない。私は、胸を突かれた気がした。
「まさかきみは……?」
「夜食をお作りしますわ。さほどお時間は、いただきません」
キッチンへ向かう彼女を目で追いながら、ようやく理解できた彼女の思いに、驚かされずにはいられなかった。
彼女は、惜しんでいるのだ。これ以上、サエの話を聞き続けることを。
探偵にだけはなりたくない。美架はよくそう、私にこぼす。私の「創作」は容認しているものの、その抜群な推理力を生かして、現実に探偵として活躍するつもりなど毛頭ないと言う。特異な脳細胞の持ち主として、密かに何人かの警察関係者にマークされているにもかかわらず。
彼女が口ずさむブルトンの一節のように、美架は不思議を好むのだ。それだけに、不思議が暴かれるような筋書きは、最も厭うところと言える。にもかかわらず、美架には解けてしまう。彼女が最も毛嫌いしている現実というレベルに、否応なく謎を引き戻してしまう。
才能という、彼女にかけられた呪いによって。
(ここが夢の終わりなのです)
だから、彼女は惜しむのだろう。
夢が夢でなくなることを。忌まわしい目覚まし時計の音とともに、不思議が消滅することを。
ボイスレコーダーを、ここで停めなければ、謎が解けてしまうから。




