ノウゼンカズラの家 第二十一回
およそ三十分後、私たちは肩を並べて、駒込の栄養女子大の近くを歩いていた。ここまで来れば、私の住むマンションは目と鼻の先である。
新宿で喫茶店に誘い、何なら食事でもと申し出たが、彼女は頑なに首を振ったのだ。
「今日は、仕事で参りましたので」
週に一度、夕刻だけ彼女を雇っているのは事実だが、何週間も無断欠勤していた口で、よく言えたものである。けれども、台所に置き去りになっている、ボイスレコーダーのことを思えば、私に異存など、あろう筈がなかった。
それにしても、
と、私は笑みがこぼれるのを抑えきれない。勅使河原美架の才能は、やはりずば抜けている。ノウゼンカズラの塔が発する奇怪な電波に引き寄せられて、彼女が区役所の前にあらわれたのは、間違いあるまい。
それにしても、である。
「どうして区役所に? おれがそこにいると思ったって、きみは言ったけど」
襟とカフスが白い、濃紺の古風なワンピースは相変わらず。無造作に切り揃えたボブヘアから覗く、すらりとしたうなじの美しさに、今さらながらハッとさせられた。
「仕事のため、先にお部屋に伺いましたが、お留守でした。許可を得ておりますので、鍵を開けて入ると、台所の電気がつけっぱなし。テーブルには、見慣れないボイスレコーダーがあります。この類いの機械を、酒井さんが決して使わないことは、承知しておりました」
たしかに、蕪雑なレポートの類いを、断りきれない三文作家。主に堀川の使い走りで怪奇実話の取材となるが、その場合、必ず手書きでメモをとることにしていた。録音は邪道。と、美架にこぼした記憶もある。彼女は続けた。
「携帯電話さえお忘れのようでしたから、おそらく衝動的に出かけられたのでしょう。許可を得ていませんので、レコーダーには触れておりません。ただ、突然の外出の理由が、第三者から手渡されたであろう、この機械に録音された内容に由ることは、間違いないと感じました。酒井さんの職業柄、その内容は怪談か、怪談に準じるもので、部屋を飛び出さずにはいられないほど、惑乱させられる内容でした」
「当たり。それから?」
「半ば茫然自失のていで、どこへ向かわれたか? それは新宿以外に考えられません」
「なぜ」
「酒井さんが地方から上京されているからです」
「おれが……」
目を円くしたが、彼女は無表情なまま。
「ええ、作家になるために、比較的最近、かなり遠方から、ですわね。右も左もわからない東京で活動しようというとき、まず拠り所となるのが、往々にして新宿ではないでしょうか。複雑に張り巡らされた蜘蛛の巣の中心点。ここから電車に乗れば、まずどこへでも行けます」
「だから?」
「新宿は酒井さんにとって、無意識に、都内で最も気持ちが安らぐ場所となっていました。あの雑踏と高層ビルの街を、第二の故郷と呼ぶのは大袈裟かもしれませんが。考え事や悩みで頭がいっぱいになったとき、ふらりと出かけるとすれば、やはりここでしょう。そのうえ駒込からは山手線一本で行けますから、我を忘れている人が向かうための、とくに支障は感じられませんでした」
「区役所前にいるとわかったのは?」
「簡単です。そこが一番落ち着くと、何度も聞いております」
種明かしをされてみると、おのれの単純さに呆れるばかり。しかし、図星を指された以上、この無愛想な女ホームズに、舌を巻かざるを得なかった。
部屋にたどり着くと、さっそく食事を作ろうとする彼女をどうにか宥めて、テーブルにつかせた。目の前に、湯気をたてる紅茶のカップが二つ置かれていることは、言うまでもない。
「ハワイにでも行ってたの?」
あらためて明るい所で眺めると、相変わらず顔色がすぐれない。少なくとも、ワイキキビーチで寝そべっていた可能性はゼロだろう。三白眼のうえ表情に乏しいのも、以前のままだが、みょうな安心感を与えられるのは、新宿と同様な効果でもあるのか。失踪前と比べて、とくにやつれた様子はないようだ。
「はい。オアフ島のワイアナエへ」
「はあ?」
「サーフィン発祥の地は、ハワイだとご存じでしたか? しかもワイキキとは反対の西海岸へ行けば、水中にトンネルができるほど、巨大な波が発生します。これは日本付近で寒気によって生じた波が、直接ハワイへ押し寄せるためだと申しますわ。興味深いですね。私たちは波にさえ乗れば、何の障害物も経ずにハワイまで行けてしまうのです」
「きみが? ハワイで、サーフィンを?」
「冗談に決まっていますわ」
真顔で唐突に繰り出される彼女の冗談は、限りなく理解に苦しむ。本人はサービスのつもりで、言っている節があるのだが。ちなみに美架は、「私」を「わたくし」と発音する。
気を取り直すために、紅茶を一口飲んだ。何週間ぶりかで飲む紅茶は、感動的な味わい。とくに高級な茶葉など使っていない、ストレートのダージリンが、彼女の手を経ただけで魔法のように美味くなる。美架も一口飲むのを見届けて、私は切り出した。
「きみのことだから、勘づいているとは思うけど、これをぜひ聴いてほしかったんだ。いいだろうか?」
ボイスレコーダーをかざしてみせた。その銀色の光沢に宿る、刃のような輝きを見たのか、美架は三白眼を大きく瞬かせた。
「聴けと仰言るなら、そういたしますけれど。なぜ私に?」
「依頼なんだよ。きみ……、鹿苑寺公香への」




