ノウゼンカズラの家 第二十回
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木曜日になっても家政婦はあらわれなかった。
空っぽのダイニングテーブルの上で、ボイスレコーダーを弄びながら、私は複雑な思いに駆られていた。
およそ一時間に及ぶ時嶋サエの話を、何度聴き返したか知れない。時には一時停止させ、同じフレーズを繰り返し聴いた。不可思議な内容もさることながら、彼女の息遣いや溜め息、不安げに震える声などが、妖しい魔力をともなって、私の耳に絡みつくようだった。
この小匣には、彼女にかけられた呪いが詰まっている。
そう考えると、銀色のちっぽけな装置は、いかにも私の手に余る気がした。
窓の外はすでに真っ暗だろう。列車が遠くを通り過ぎると、壁の時計が秒針を刻む音だけを、虚しく響かせた。
事件を依頼すべき私の登場人物、「鹿苑寺公香」が登場する気配は、まったく感じられなかった。
時嶋サエには、家政婦の行方が知れないことを、ついに話さなかった。めどがついたら連絡する、などと限りなく曖昧な口約束をしたまま、うかうかと開いたパンドラの匣を、こうして持て余している次第である。
そうして独り持て余しているうちに、いつか詰め込まれた魑魅魍魎たちが匣を抜け出し、私をも捉えてしまうのではあるまいか。妖精めいた少女、残酷で顔のない子供たち、病み疲れた大人たち、そうして、ノウゼンカズラの塔に棲む男……私もまたかれらが蠢く世界に、封じ籠められてしまうのではあるまいか。
時嶋サエの悪夢の中に。
居たたまれなくなって、私は席を立った。上着を引っかけ、外の空気を求めて部屋を逃げ出した。家政婦を探さなければ、という思いだけが、頭を占めていた。
(探すたって、いったいどこを?)
自身に問いかけられて、我に返ったのが電車の中。自由業の特権と称して、こんな時間には乗らないよう心がけていたのだが。恐れていたほど込んでいないのは、人の流れと逆行するからだろう。
それでもさすがに池袋辺りから人がどんどん乗り込み、新宿駅で吐き出されたときには、這う這うの体。東口へ向かい、人、また人の流れに押し流されつつ、ずいぶん歩いて区役所の前へ。
ここでようやく人心地がついた。
(なんでおれは、こんな所にいるんだ?)
またしても冷たく問いかけてくる理性を黙殺して、奇妙な銅像の君臨する水盤の前に腰を下ろした。周囲には、人待ち顔の男女が数人、立ったり座ったりしている。目の前を行き交う人たちに、ホステスらしい身なりが多く混じる。
「新宿も、すごいところに役所を建てたわよね」
数人連れの、こちらはお堅そうな若い女の一人が、そんな感想を述べながら通り過ぎた。私の隣に立っていた、いかにも冴えない中年男に、あられもない身なりの女がいきなり抱きつく。なるほど、この先は風俗営業の店が立ち並ぶが、私には魔窟に踏み込む意気地がない。
ただ区役所の前で、ぼんやりしているのが好きなのだ。だれかを待つふりをしながら、誰も待たずに。
(だれも?)
左右を見渡した。
タクシーでも待つのか、厚化粧をした二人のホステスが韓国語で立ち話をしている。坊主頭に白シャツを腕まくりした謎の男が、大きなバッグのかたわらに、あぐらをかいている。
覚えず苦笑が洩れた。こんなところで、私は「私の家政婦」を待っているつもりなのか。
もともと失踪癖のある女らしいが、このたび消えた理由は明白だ。小仏峠で起きた、瓶詰めの密室殺人……あの謎を解いたがために、図らずも犯人を死に追いやる結果となった。実際には死体が発見されないので、断定はできなにせよ。「一介の家政婦」を自称する彼女には、耐え難かったのだ。
私なりに行方を探してもみたが、彼女のプライベートな情報は、あまりにも乏し過ぎた。日頃から、私生活には一言も触れないし、八王子の家政婦派遣所さえ、住所を把握していない様子。まして正式な雇い主でもない私には、いくら自作のモデルにしているとはいえ、知る由もなかった。
ならば、
と、私は考える。
彼女の傑出した二つの才能の一つに、賭けてみるべきではないのか。事件の謎を解く才能に? いや、そうではなくて、もう一つの、
奇怪な事件に巻き込まれる才能に、だ。
この才能が発動すれば、おのずから彼女は引き寄せられてくる。彼女が望もうと望むまいと。才能とは呪いの一種であり、有無を言わさず持ち主を引き廻す残酷な力だ。時嶋サエが私に持ち込んだ「事件」は、それを発動させるための、充分な威力を発揮する筈である。
と、ここまで考えて、
ふたたび、苦笑が洩れた。
だからといって、こんな都心のど真ん中にぼんやり座っていて、一人の女と行き逢える、どれほどの確率があるのか。コンマの先のゼロを、いったい何桁並べれば足りるのだろう?
少し風が出てきた。夜を迎えるには、薄っぺらな上着一枚では耐えられそうにない。
韓国人ホステスの姿はすでになく、謎の坊主頭もいつの間にか消えていた。自嘲的な笑みを浮かべて立ち上がったところで、目の前にたたずむ、柔らかい影法師に気づいた。
「ここにいらっしゃると思いましたので。遅くなって申し訳ございません」
私の登場人物、「鹿苑寺公香」こと勅使河原美架が、深々と頭を下げていた。




