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ノウゼンカズラの家 第十九回

 みっしりと葉の詰まった灌木を、どうやって潜り抜けたのかわかりません。いつのまにかわたしは、小さな公園に独り、立っていました。

 振り返ると、何事もなかったように植え込みは塞がれており、ただ真新しい葉っぱが地面に散っていることが、苦闘を物語っていました。

 まるで一枚の鏡を、潜り抜けたような気がしました。

 家や学校や……日常と地続きだった世界は、背後の植え込みによって完全に遮断され、目の前には見知らぬ……けれどたしかに来た覚えのある……風景が広がっていました。

 異界はどこか遠くにあるのではなく、鏡一枚ほどの薄板を隔てて、わたしたちの日常と背中合わせに存在していたのです。

 入り口のほうでは、相変わらずひと気のない住宅地が、ひっそりと眠っています。ここへ来るたびに、コズエがなぜ毎回ルートを変えたのか。そもそも、これほど近くにあったのに、なぜ大きく迂回していたのか? その理由が痛ましい思いとともに、理解できるようでした。

 彼女は、少しでも遠く離れたかったのではないでしょうか。時間も場所も。日常という名の、悪意に満ち満ちた世界から。

 目を転じると、雑木林に覆われた丘の斜面がそこにありました。

(また、花が降ってくるやないね)

 ふうわりと、耳もとで囁かれた気がして、覚えず辺りを見わたしました。オレンヂ色の花は、けれどどこにも落ちていません。

 数分後、わたしが雑木林の斜面を上っていたことは、断るまでもありません。

 晴天が続いたせいか、水が流れた形跡もなく、踏みしめる落ち葉はよそよそしい、乾いた音をたてました。まだ汗ばむほどでしたが、下生えは懸命に実をつけ、葉の色も僅かに変わり始めており、忍びやかに鳴くコオロギの声も相まって、この森に入り込んだ秋の、確実な足どりを見る思いがしました。

 これから先の出来事を、くだくだしく話すのはよしましょう。

 わたし自身、あの光景を思い返すのは非常な苦痛をともないます。コズエがいなくなった経緯を語るのとは、また違った種類の。

 林の奥に、家らしいものは、たしかにありました。

 錆びきったトタン張りで、窓がベニヤで塞がれており、蔓草が絡みついたさまも、記憶していたとおりでした。ただ、あの花に覆われた塔だけが、完全に消えていることを除けば。

 だから、ノウゼンカズラの花は一輪も降ってこなかったのです。

 近づいてみると、あの日訪れた時よりも、ずっと荒廃が進んでいました。何年も放置されたように、崩れ落ちた戸の残骸が、ぽっかりと黒い口を開けた玄関に堆積しています。「D・A」のイニシャル入りの郵便受けや呼び鈴は、跡形もありませんでした。

 ほんの束の間、異次元に渡っている間に、こちらでは途方もない時間が流れたかのようです。

 家の中には饐えたような、耐え難い臭気が籠もっていました。それでも、壁の至る所に隙間ができて、ベニヤが何枚も割られているため、中は案外明るいのです。がらんとした家の中が、すべて見わたせるほどに。

 コンクリートの床は、じっとりと湿っているばかり。侵入した蔓草が窓枠を縁どっています。箪笥や戸棚は引き倒されて、ガラスの破片の上で朽ちています。堆く積まれたテレビは見当たらず、最も奥まった一角……あの階段のあった辺りには、闇がべったりと貼りついていました。

 怯えた小動物のように目を凝らしながら、わたしは歩を進めました。階段がなくなっていることが、わたしにはすでに、わかっていたのかもしれません。代わりに壁があるばかりで、そこだけトタンではなく、乱暴にセメントで塗り固めたようでした。

 そこにあった何かを、懸命に塗り込めたように。

 ひっ、

 と、わたしが息を呑んだのは、壁の前にぶら下がっている、あるものに気づいたからです。

 古めかしい、セルロイドの少女人形でした。

 赤い服はぼろぼろで、片手と片足がもげて、床に落ちていました。くしゃくしゃに乱れた赤い髪に半ば隠れて、片方だけ残ったガラスの眼球で、虚ろにわたしを見つめていました。

(さよなら、ごめんね)

 泣き声とも悲鳴ともつかない叫び声を上げながら、わたしは家を飛び出しました。

 斜面の途中から、やはり海とおぼしい銀色の帯が見えました。悲鳴じみた、時期を逸した蝉の声を聴いた気がしましたが、それは幻聴か、わたし自身の声だったのかもしれません。

 それからまた、ひどい熱を出したようです。わたしが床についていても期日は伸ばせないらしく、母は引っ越しを強行しました。だからその辺りの記憶はおぼろげで、かつ断片的にしか残っていません。

 最初に越した先は埼玉県の郊外でした。町名は失念しておりますが、比較的近くに、西武球場があったようです。母の親戚の世話で、一時的に空き家に身を寄せただけらしく、実際、その町にいたのは二ヶ月程度でした。

 やがて母の就職先が決まり、都内へと移ってゆきました。

 くだくだしく話してしまいましたが、これが不可解なわたしの記憶の全貌です。わたしは今でも、この思い出に呪縛され、悪夢の中で喘いでおります。

 コズエと名のった少女は、どこへ消えたのか?

 どうかこの謎を、そしてわたしにかけられた呪いを、「鹿苑寺公香」さんに解いていただきたいのです。

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