ノウゼンカズラの家 第十八回
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だからこれも、時嶋サエから聞いた話である。
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熱が下がり、なんとか学校へ行けるようになった頃には、すでに二学期が始まっていました。
寝こんでいる間に、何もかもがすっかり変わってしまったように思えます。外の世界は、よそよそしい顔をわたしに向け、もの陰で囁きあい、嘲笑っているかのようです。
朝、いつもの場所に、コズエはあらわれませんでした。
分署の前の空き地には、何かのお祭の準備をするらしい人が、三々五々に集まってきましたので、そう長居もできませんでしたし。彼女が決してあらわれないことを、わたしは心のどこかで、知っていた気がします。
すっかり日焼けしたクラスの子たちの顔は、真っ黒に塗り潰され、どれも同じに見えました。海や山や旅先のことを、際限もなく捲したてるかれらの声は、奇怪な異国の言葉と化して、わたしの耳を意地悪く素通りしました。
担任が急に変わったらしく、陰気な中年の女が、ほとんど聞き取れない声で授業を始めました。わたしは異界に片足を突っこんでしまったがために、ヒトの世界が以前よりもいっそう住み辛く、孤独なものに感じられたのかもしれません。
寝込んで以来、父の姿をまったく見ていませんから、すでに別居が始まっていたのでしょう。母は極端に外出が増えました。だから、家に帰るといつもテレビの音と、ダイニングテーブルの上の冷めた料理ばかりが、わたしを迎えました。
父には二度と会えない。
熱にうなされながら、恐怖に近いその確信に、何度揺り起こされたか知れません。もちろん、幼かったとはいえ、コズエを連れ去った男が父だと思い込むほど、愚かではありませんでしたが。それでも父が彼女と手を取りあって階段を上る姿を、何度も夢に見ました。
夢を見ながら泣いていて、覚めてからもまた、泣きじゃくったのです。
(さよなら、ごめんね)
いったい彼女はどこへ行ったのか?
いつしかわたしの中で、そんな当然の疑問が、膨らみ始めました。
学校で彼女の行方を、それとなく尋ねてもみました。けれども、あらためてわたしは、コズエ、という名前しか知らず、クラスさえ聞いていなかったことに、気づかされる始末です。
ただ、彼女が「チコクマ」だったことや、美しい赤い髪、奇妙な言動など、印象に残る特徴は多くあった筈です。
黒い顔の子たちは、けれども、一様に首を振りました。かといって、陰気な女教師に相談する気には、とてもなれません。
「二年生にコズエという名前の子なんか、一人もいないよ」
別のクラスの女の子には、そう言われました。
「ほんとうに? 一学期からずっと?」
「いないよ。パパに聞いてもいいよ。パパね、PTAの役員なんだ」
そうして次に顔を合せたとき、その子は覚えておいてくれたらしく、実際に「コズエ」という名の生徒が同学年には一人もいないことを、知らされたのです。
彼女は、名前をわたしに偽ったのでしょうか?
しかし、コズエの特徴と一致する子を、だれも知らないことを考え合わせると、例の子が言ったとおり、初めからこの学校にいなかったとしか思えません。問題を起こしたという彼女の父親もまた、だれの記憶にもないらしいのです。
ならば、違う小学校の生徒だったのか? いいえ、彼女の持ち物の幾つかは、たしかに同じ学校で「買わされた」ものでした。
わたしはずっと、白昼夢を見ていたのでしょうか?
もしも、「コズエ」という女の子が「はじめから存在しなかった」のなら、そういうことになってしまいます。あるいは、本当に彼女は妖精……野生のものだったのか……
(もう一度、あの場所へ行ってみなければ)
わたしは強く、そう思うようになりました。
授業が早く終わった日の放課後や、休みの日を使っての、「もう一つの公園」へ行こうとする試みは、けれど何度も失敗に終わりました。
常にコズエに先導されていましたし、道も一様ではありませんでした。しかもわたしは方向感覚が鈍いうえに、まだ身体の不調が続いており、ちょっとしたことで熱を出していましたから。
ある日曜日の遅い午後だったと思います。
わたしはぼんやりと、「みんなが行く」公園のベンチに座っていました。その日はなぜか、公園で遊ぶ子供の姿がまったくなく、散歩者もまた、一人も訪れません。
まるで次元と次元の狭間に落ち込んだように、何も動かず、辺りはしんと静まり返っていました。
誰もいない公園を眺めれば、まるで見知らぬ場所のようです。あんなところに、ジャングルジムなんてあっただろうか? ブランコはこんなに真新しかったか……コズエと知り合う前から、自分自身、いかに「みんなが行く」場所を避けていたか、あらためて思い知らされるようです。
彼女とわたしとは、最初から同類だったのです。ただ、根本的に属する世界が違っていただけで……
もう帰ろう。
そう考えて立ち上がったとき、すぐ背中の植え込みが、がさがさと鳴りました。
ぎょっとして振り返りましたが、何が居るわけでもありません。少し色を変え始めた灌木が、葉をみっしりと繁らせているばかりで。
もとから風はありませんから、これほど大きな音をたてて、植え込みが揺れたのは、やはり不思議でした。それとも、木を後ろからだれかが揺らしたのでしょうか?
大きな犬かもしれない。そんな考えも、頭をよぎりましたが、憑かれたように葉叢を掻き分ける、わたしの手を止めるには至りませんでした。無意識によほど力を入れたのか、幾つもの葉っぱがばらばらとこぼれ、小枝の籠に閉じこめられたような、向こう側が見えました。
道路でも、他人の家の庭でもありません。
古いぶらんこが一つだけ据えられた、もう一つの公園でした。




