ノウゼンカズラの家 第十七回
コノコ、ハ、ツレテ、ユケナイ。
その一言を聴いた瞬間、わたしの中で何かが崩れるのを感じました。
“野生のもの”である彼女とわたしは、オレンヂ色の花が無数に滴り落ちてくる階段の前で、選り分けられてしまったのだと。
父の目をした、見知らぬ男から。
遠慮がちに、片手が差し出されたのがわかりました。老人のように皺くちゃで、皮膚の方々が硬化した……かれの手もまた、機械工である父の手とそっくりでした。
コズエは男の手を、小さな両手で、そっと握り返しました。
「さよなら、ごめんね」
そう言った彼女の声を、わたしは今でも胸の内で鮮やかにプレイバックできます。
彼女にしては珍しい、綺麗な標準語のアクセントまでも。そうしてこんな闇の中に居ながら、これほどまでに、彼女を美しいと感じたことはありませんでした。
男の、黒い、大きな背中。その後ろから階段をのぼりながら、彼女は一度だけ振り返りました。スローモーションの映像のように、赤みがかった、透きとおるような髪が、ふうわりと揺れて、たくさんの、輝くようなノウゼンカズラの花に縁どられていました。
あれは、幻だったのでしょうか。
彼女は大きく見開いた目にいっぱい、きらきらと涙を浮かべていました。
それがコズエを見た最後でした。
気がつけば、わたしは駆けだしていました。
冷たい水が足に絡みついて、吸い込もうとしているような恐ろしさに抗いながら。何度も転びそうになり、水の中に手をついて、道具に肘をぶつけました。家から飛び出すと、木洩れ日が無数の光の矢と化して、目に突き刺さってくるようでした。
めくらめっぽう。
そんな言葉どおり、わたしは駆けたと思います。さいわいゆるやかな斜面が、帰るべき方角を示してくれました。一本の太い木にぶつかりそうになり、幹に手をついて、喘ぐように息を継いだとき、サンダルが片方、脱げていることに気づきました。
ようやく顔を上げると、まばらな木立の向こうに、銀の帯のようなものが覗いていました。あれはきっと、海だったのでしょう。そこで初めて、わたしは夢から覚めたように感じたのです。
(さよなら、ごめんね)
不意に、耳もとで囁かれたような気がして、びくりと振り返りました。
ノウゼンカズラの花が一輪、わたしの頬をかすめて、朽葉の上に落ちました。
あの家はすでに木立の向こうに閉ざされて、奇妙な塔も、もはやまったく見えません。
今頃はあの塔の上から、コズエもこっちを見ているのだろうか。男と手を繋いだまま。わたしの目には映らないものが、彼女の“野生の”瞳をとおして、見えているのだろうか。
ぼんやりとそう考えているうちに、胸の奥から、熱い塊のようなものがこみ上げてきました。じっと耳を澄ませているような、不気味なほど静まり返った木立の中に、わたしの嗚咽だけが、こだまを返すようでした。
泣きじゃくりながら雑木林の斜面を下り、やっぱり誰もいない、小さな公園に辿りつきました。そこからどうやって帰り着いたか、まったく覚えていないのですが、日が暮れる前には家に戻っていたようです。
わたしは布団にもぐりこみ、そのまま熱を出して何週間も起き上がれませんでした。
◇
外はすっかり暗くなっていた。
木のテーブルの上に、無意識にカップを置く音で、現実に引き戻された気がした。
これが五杯めのコーヒーであることを、ぼんやりと思い出した。彼女が組み合わせた指の前では、二杯めのコーヒーがすっかり冷めたまま、まだ半分以上残っているようだ。
沈黙が、彼女の話が一区切りついたことを知らせていた。言葉が継がれるのを待ちながら、私はカップの隣に置かれた、銀色の小さな機械を、ちらちらと盗み見ずにはいられなかった。
時嶋サエが持参したボイスレコーダーは、この永い沈黙をも拾っている筈である。
「ごめんなさい」
声が少し掠れていた。彼女は冷たいカップを口へ運んだあと、ハンドバッグからハンカチを取り出した。瞼の火照りをとるように、綺麗に折りたたまれたそれで、目もとを覆った。
「長いばかりで、要領を得ない話でしたね。さぞかし、お退屈だったでしょう。どうしても私は先生と違い、文章を簡潔にまとめる才能に乏しいもので」
「とんでもない」
たしかに枝葉の多い、迷路の中を彷徨うような語り口だが、私はいつしか、少女が見た夢とも現実ともつかぬ世界に引き込まれていた。会ったこともない不思議な女の子の姿が、ありありと浮かぶようだった。
私は尋ねた。
「では、コズエという女の子とは、二度と会うことはなかったのですか」
はい、と答えて、時嶋サエは目を伏せた。言葉を探るような沈黙のあと、再び語り始めた。
あとの話は、そう長くはなかった。




