ノウゼンカズラの家 第十六回
ドアノブを廻したのはコズエでした。ギイ、と何かが鳴くような鈍い音がしましたが、黒ずんだ木のドアは、難なく外側に開きました。
まず気づいたのは、何十個もの蛇口を開けっ放しにしたような水の音でした。
「知らない人の家だよ。勝手に開けちゃだめだよ」
外光に慣れた目に、家の中はとても暗く感じられました。獣じみた闇の息づかいまで、感じられるほどに。
「さっき、呼んどるのを見たやろう?」
「でも……」
口ごもるわたしの手を、コズエはまた引っ張ります。闇に気圧されたように、蝶たちが逃げ去るのと入れ違いに、わたしたちは埃と黴と、夜のにおいに包まれました。
サンダルを履いた足が冷たい水に浸されて、覚えず悲鳴が洩れました。コンクリートらしい床には浅く水が張られ、流れまで感じられます。
林の中の細流は、この家の中から、流れ出したものかもしれません。
たぶん、きっとそうなのでしょう。
窓を覆う板の隙間から、外光が洩れています。しきりのない、だだっ広い空間であることが、かろうじてわかります。あっちこっちに様々なモノの影が、得体の知れない生き物のようにうずくまっています。
それらは古めかしい鏡台であり、箪笥であり、理科室にあるような、瓶のいっぱい詰まったガラス戸棚などです。脈略が全く感じられない配置で、壁に背をつけるでもなく、方向も無造作に、ただ置かれているのです。
奇怪なオブジェのように。
コズエは暗がりの中をゆっくりと、けれど迷わず進んでゆきます。雨の日の間、彼女がどこへ行っていたのか。その答えは、わたしの中で確信に変わりつつありました。
やがて家の中で、灯りが薄くともりました。
見上げると、天井の蛍光灯はすべて外されています。灰色の光線が、ちらちらと水に反射しながら、どこから射してくるのか、わたしたちはしばらく視線をさまよわせました。
向こうの水の中に、古い小型テレビが幾つも積み上げられています。それらのブラウン管が光っていることに、ようやく気づきました。今にも消えてしまいそうなほど、モノクロの光も弱いのですが、一つ一つの画面には、人や風景がおぼろげに映っています。
ざーっ、というノイズが水の音に溶かされ、時折、笑い声や音楽の断片が現れては、すぐに消えます。
部屋の最も奥まった部分の壁だけが、トタンではなくコンクリートです。岩壁を彫ったような、いびつな階段を、灰色の光が、照らし出しています。
階段は、オレンヂ色の花の咲き乱れる、あの塔へと続くのでしょうか。
それにしても、なぜこれほど多くの水が、階段から滑り落ちてくるのでしょう。いったいどんな仕組みで、塔の上まで水を汲み上げているのか。水はたしかにノウゼンカズラの花を、無数に浮かべながら、降りてくるのですから。
階段の上のほうで、オレンヂ色の光が揺れました。
それは林の中から見た灯り……塔の上でともっていた光に、違いありません。硬い靴底が、水浸しのコンクリートを踏むときの、みょうにくぐもった足音が聴こえました。
わたしたちに「おいでおいで」をした、塔の上の男が、一歩ずつ階段を降りて来るのでしょう。
わたしたちは、手を繋いで待っていました。
怖かったとか、鼓動が高鳴ったとか、そういった記憶はなぜかありません。夢の中であれほど強く感じた危機感も、神経的に揺れるブラウン管の一つに閉じ籠められてしまったように。
圧倒的な灰色の無感覚の中、コズエの指の冷たさだけが、かろうじて感じられました。
階段の上で、黒光りする長靴が、ノウゼンカズラの花を踏みつぶすのを見ました。オレンヂ色の光が、いつしか目の前で揺れていました。
実体のない影法師だけが、灯りの後ろに貼りついている……最初、そんなふうに見えました。
その小柄な男は、屋外用のオイルランプを手にしたまま、無言で立っていました。毛織りの中折れ帽を目深に被り、足首までレインコートに包まれて。頬の無精髭に、白いものが混じり始めています。
男は真正面からコズエを見つめたまま、唇を引き攣らせたように、頬の左側へ歪めました。
微笑んだのかもしれません。
「ハカセ、友達を連れて来たんよ」
コズエはたしかに、そう呼びかけました。そのとき初めて、男は顔を少し持ち上げて、わたしをまともに見たのです。帽子の下に、片方だけ瞳が覗いたとき、わたしはぎょっとしました。
父の目と、そっくりでした。
「二階を見せても、よかでしょう?」
どこか甘えるような彼女の声が、遠く感じられます。コズエがこんな喋りかたをすることに、とても驚いていたにもかかわらず。
男が小さく首を振るのが、はっきりとわかりました。
「なんで、だめなん?」
「コノコ、ハ、ツレテ、ユケナイ」
くぐもった、かさかさに乾いた、奇怪なアクセントの、とても聴きとり難い声。けれども、そのとき発せられた男の言葉は、忌まわしい呪文のように、今でもわたしの耳にこびりついて離れません。




