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ノウゼンカズラの家 第十三回

「ずっと家にいたの?」

 尋ねると、小首を傾げて力弱く笑っています。雨具を着込んで外へ出て行く姿が、容易に浮かびました。

 土木作業員職である彼女の父親は、雨が降れば家にいる筈ですから、コズエは一緒にいたくなかったのでしょうか。いわゆるDVを受けていないことは、わたしも再三尋ねましたが、確かなようです。むしろ溺愛に近い、常軌を逸した愛情を、かれは娘に抱いていたふしがあります。

 あるいはその愛情が、彼女にとってはDVと等しく感じられたのかもしれません。

「うちに来くればよかったのに。中で遊べるでしょう」

 コズエは答えず、わたしも彼女にそれができないことが、わかり過ぎるほどわかっていました。まるで西洋のフォークロアです。地下の世界に棲む妖精のように、外を駆け廻ることはできても、彼女は決して他人の家へ入って来れないのです。

 なぜなら妖精は“野生のもの”だから。人間生活の領域に入り込もうとすれば、家の神に睨まれてしまうのでしょう。

 昨日までの雨が嘘みたいに、高く晴れて、さらさらと乾いた風が吹いていました。一足早く忍び寄る秋の足音を聴いたように。

 嬉々として潤った葉叢の間から、木漏れ日がばら撒かれます。わたしは“野生のもの”に手を引かれて、もう一つの世界へと、いざなわれてゆきます。鬼のように怖い目をした大人たちも、狐よりも狡猾で利己的な子供たちもいない、小さな王国へと。

(雨の日も、あの公園にいたの?)

 久しぶりの外出に弾んでいたわたしの心は、その疑問に突き当たったとたん、暗転しました。

 雨にけぶる風景は、モノクロームの古い映画のように見えます。すべてが不鮮明にかすむ中、赤い花のような、あるいは鮮血にも似た雨具の色が、くっきりと浮かんでいます。

 彼女はたった一つしかないぶらんこに腰かけ、足でリズムをとるように、軽く揺すっています。大きめのフードを雨がぱらぱらと叩き、食み出した髪の毛が濡れていますが、どんな表情をしているのか、蒼い影が貼りついていてわかりません。

 きい、きいと、雨の中、錆びついた鎖の音が響きます。

 黒い大きな影が、ゆっくりと彼女に近づいてきます。それは雑木林のほうからあらわれ、膜質の翼のように、蝙蝠傘を広げて……

「何か、おった?」

 極端に見開かれた母の目が、脳裏に浮かんで消えました。

 覚えず立ち止まったわたしの顔を、コズエが覗きこんでいました。不思議そうに、そしてどこか、哀しそうに。繋がれた手を、わたしは無意識に、振りほどいていたようです。

「なにも。ただちょっと、ふらふらしただけ」

「風邪ひいたんね? だいじょうぶなん?」

「うん、何ともないから」

 ここのところ続いている体の不調が原因で、白昼夢めいた幻覚を見たのは確かでしょう。引き返してもよかったのですが、それっきり二度と彼女と逢えなくなるような、不可思議な予感に、いきなり胸を締めつけられました。

 あの疑問は、とうとう口にできないまま。

 たった数日の間に、もう一つの公園には、ずいぶん雑草が繁茂していました。金網を越えて、周囲から侵入するものや、砂地に芽吹いて、すでに青々と葉を広げているもの。蔓草がぶらんこの鉄柱に絡みつき、鎖をも奪おうとしていました。

 わたしたちはそこで、いつもと変わらず、何もせずに過ごしました。

「ね、コズエちゃんのお父さんって、どんな人なの」

 取り決めたわけではありませんが、お互いの家族には極力触れないことが、暗黙の了解でした。二人とも家から逃れるために、ここへ来ているのはわかりきっていましたから。ひととおり事情を打ち明けた後は、話すことなどなかった筈です。

 なぜ、あえて禁を破る気になったのか、自分でもよくわかりません。来る途中で見た幻影が、影響しているのかもしれません。言ってしまってからハッと後悔しましたが、彼女は嫌悪感を表すでもなく、しゃがみ込んだままぼんやりと、雑草を見つめていました。

「どんなって、どんなん?」

「優しい?」

「よくわからん。ただ……」

 二人きりの時は快活なコズエが口ごもるのを、奇異な思いで眺めました。考え込むように眉を顰めたあと、掠れた声が弱々しく響きました。

「一緒にお風呂に入りたくなか」

 これ以上、この話題を続けることができませんでした。激しい罪悪感を覚えるほど、聞いてしまったことを悔いました。あるいは今でも悔いているのです。“あのこと”があったのは、わたしの心ない質問が、引き鉄になったのではないか、と。

 同時にわたしは、わたしの父のことをしきりに想起せずには、いられませんでした。間もなく、確実に父と別れることになるのだという思いが、こんな所で、今頃になって胸にせまってくるようでした。

 いつの間に、彼女が立ち上がったのかわかりません。

 彼女の隣に、彼女と同じようにしゃがんでいた筈のわたしを見下ろして、無表情なまま、雑木林の斜面を指さすのです。

「あの中に、家があるのを見つけたんよ。行ってみるね?」

 もう片方の彼女の掌の上には、濃いオレンヂ色をしたノウゼンカズラの花が一輪、大切そうに載せられていました。

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