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ノウゼンカズラの家 第十二回

 それから三日間、雨の日が続きました。傘をさして、何度か表に出てみたのですが、水滴をいっぱいつけたコガネグモの巣の下に、コズエの姿は見当たりませんでした。

 彼女がどこに住んでいるのか、わたしは知らないまま。今でもそうなのですが、自分から連絡をとって、人と逢ったりすることが、とても苦手なのです。

 先生は、不思議そうな顔をなさいますね。

 確かにわたしは、堀川先生の会合に毎回顔を出しておりますが、それは大勢の中の一人という安心感があるからです。一対一のつきあいとなると、どうしても恐怖心が先に立ってしまいますのは、きっと疎ましがられるのを極端に恐れる性質ゆえでしょう。

 ですから、こうして酒井先生のご迷惑を省みずとお話ししていることが、実は自分でも不思議なんですよ。

 閑話休題といたしましょう。どうしてもわたしの話は、寄り道が多くなってしまいますね。こんな性格だから、彼女と気が合ったのかもしれませんけれど。

 雨が降り続いて初めて、一日じゅう家にいるのがどれほど苦痛か、思い知らされました。どちらかというと面倒に感じていたコズエの訪問を、心待ちにしている自分に気づきました。

 父は朝食をとらずに仕事へ行き、母が「教室」から出てこないのも相変わらず。家の中にいると、姿を見せない両親の存在が亡霊じみた圧力と化して、わたしにのしかかってくるようです。

 まるで、無言の非難のように。

 わたしの存在そのものを、否定しているかのように。

 それでも正午を過ぎる頃、母は「教室」から這い出してきました。蒼い顔。寝乱れた髪を束ねようともせず、スリップを一枚、だらしなく身に纏っています。

 あれほど身綺麗にすることを好んだ母とは、別人のようです。躾に厳格な人でしたが、自身をも厳しく律することで、周囲を納得させるところがありました。父の競馬への耽溺に歯止めをかけていたのも、母の影響力でしょう。

 今思えば、当時、彼女は自身のプライドに責められていたのかもしれません。離婚という名の「恥」を晒さないためにも、性格の合わない男との共同生活を、歯を食い縛って耐え抜いてきたのではないでしょうか。

 母は独身時代、ほとんどテレビを観なかったと聞いています。逆に父は、常にテレビの音が鳴っていないと落ち着かない人でした。彼女がなかば無意識に、テレビのスイッチを入れるようになったのも、哀しい妥協が習慣化したものかもしれません。

 このときも、彼女はわたしを一瞥しただけで、機械的にテレビをつけました。平日の昼のワイドショーが虚しい笑い声をたて始めましたが、母はキッチンに向かったたまま、背を向けています。

 やがてまな板を叩く音が軽やかに聴こえてくれば、少しは救われた気分になるはずでした。けれども、剥き出しの背中が、薄闇の中で丸く縮こまったまま、期待していた音は一向に鳴り始めません。

 どの同級生の母親よりも若々しかった彼女の背中は、とても老いて見えました。

 彼女は林檎を剥いていたのです。

「ね、このへん、痴漢が出るって本当?」

 裸の肩が、びくりと震えるのを見て、口に出したことを後悔しました。冗談めかしてコズエの言ったことが、ずっと胸に引っかかっていたのと、何よりも、沈黙に耐え難かったから。

「何かされたの?」

 テレビは相変わらず笑い続けています。振り向いた母の表情を、わたしは永く忘れることができませんでした。

 いつのまにこれほど痩せたのか、面やつれして落ちくぼんだ眼窩から、ぎょろりと見開かれた目がわたしを凝視しています。

 眼光を想わせるナイフの切っ先から、わたしは目が離せません。

「べつに、何も。友達が噂してたから、訊いてみただけ」

 母は大きく目をしばたたかせると、無言でまた背を向けました。ようやく聞きとれる程度の、独り言めいたつぶやきが洩れてきました。

「私の生徒たちから、聞いたことがあるわ。不審な男が、この辺りをうろついてるって。だいぶ前からいるらしいけど、警察や学校は何してるのかしらね。サエも遅くまで遊んでないで、早く帰ってきなさい」

 無味乾燥な書類を読み上げるような、抑揚のない声でした。彼女はまた「教室」に引っ込み、ガラスのボールに入った林檎ばかりが、台所のテーブルに残されました。いかにも器用に剥かれた表面が、少し腐っていました。

 四日めには雨が上がって、コズエが門の前にあらわれました。

 その日が、この女の子を目にした最後となります。

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