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ノウゼンカズラの家 第十一回

 ほかの子みたいに、彼女は玄関先でわたしの名を呼んだりはしませんでした。いつもお昼過ぎにやって来て、門の外に独り、たたずんでいるのです。だから来ていることを確かめるためには、サンダルを引っかけて、外を覗いてみる必要がありました。

 コズエは例のコガネグモの巣を、じっと見上げている場合がほとんどでした。

「呼んでくれたらいいのに」

「勉強しとったら、悪いから」

 わたしがその実、あまり外出したくなかったのは確かです。夏風邪とは異なる、原因不明な体の不調を覚えて、ともすれば午前中いっぱい、布団のなかでうとうとしていることがありました。

 ほとんど顔を合わせなくなった父はもちろん、母もそんなわたしを咎めもしなければ、様子を尋ねたりもしません。実際、気怠さ以外の自覚症状はなく、あっても微熱程度でしたから。

 ただ、泥のような眠りに縛られて、なかなか起き出せない布団の中で、あの怖い夢を繰り返し見ていました。

 ならば、コズエと逢うのが厭わしかったかと問われれば、首を振らざるを得ません。決して門の内へ入って来ようとしない彼女を、無視することは容易でしたし、体調が優れないという、充分な理由もありました。けれど、

「今日も公園に行くね?」

 まるで、子供たちが行く大きな公園へ、気軽に誘うような口調なのです。そのうえあの「痛ましい」笑みを浮かべられると、わたしはもう、断ることができませんでした。

 行先はいつも決まっていました。

 現在でもそうなのですが、わたしはいわゆる方向音痴で、道を覚えるのが殊更に不得手です。そのうえ「道なき道」を辿りながら、手を引く彼女の気まぐれでルートが毎回変わるのですから。それが町の中のどの辺りにあるのかさえ、わたしには把握できていませんでした。

 相変わらず、何にもない公園です。

 時折、どこからともなくノウゼンカズラの花が降ってくるほかは、何事も起きません。

 そして相変わらずコズエは、兎のように聞き耳を立てて、何ものかの到来を待っているようなのです。

(なにか来るの? だれを、待ってるの?)

 何度その言葉を口に出しかけては、呑み込んだでしょう。

 どうしても言い出せなかったのは、夢の中の黒い人影が、重くのしかかっていたからです。口にしたとたん、コズエがわたしの手を引いて、雑木林の斜面へと導くのではないか……そんな恐ろしさに始終、つき纏われていたからです。

 ならばわたしは、彼女と一緒に遊ぶことが厭だったのか? 恐怖ばかりを感じていたのかと自問してみれば、答えはノーです。夢の中でもそうだったように、恐ろしさの底には不可解な、痺れるような魅力が横たわっておりました。

 金色の美しい蛇のように、甘美な魔力が。

 わたしたちは毎日、何もない公園でただぼんやりと時を過ごしました。

 二人ともそのことには一言も触れないまま。何かの到来を恐れながらも、心待ちにしているかのようでした。

 とくにお喋りに興じるわけでも、遊びに夢中になるでもない。唯一の遊具であるぶらんこにも、ただ腰かけるだけで、漕いだ記憶すらありません。なのに、「もう一つの公園」にいるだけで、時間が経つのがとても早く感じられました。まるで妖精の棲まう、地下の異界に紛れ込んだように。

 わたしたちのほかに、入ってくる人は一向に現れません。前の道を通る車はおろか、人影もほとんど見かけません。たまに通りかかる人も、まるで公園などそこに存在しないように、足早に通り過ぎてゆきます。

 ただ、夕方に犬を連れて必ず通りかかる老人だけが、じっと覗きこんでは、声をかけました。

 かれは、真夏だというのに、いつも茶色い毛織りの帽子を被って、ずんぐりむっくりした体を丸めて歩く姿が、驚くほど茶色い老犬とそっくりでした。しょぼしょぼと、鼻の下に白い髭をたくわえていました。

「こげん所で遊んどったら、いかんぞ。早う帰らんか」

 詰問する口調でない代わりに、親しみが籠もってもいません。昨日も同じことを言ったのを覚えていないように、淡々と繰り返します。

 犬も老人と同じ顔をして、こちらを眺めています。垂れ下がった眉毛の下の目は茶色く濁り、理科準備室の古い剥製を想わせます。

「なんで来たらいかんの?」

 訪ね返すコズエは気のない様子で、よそ見をしたまま。老人は眉毛に埋もれそうな、小さな目をしばたたかせます。

「カミカクシニに行き逢うぞ」

 まるで老人ではなく、犬が喋ったように思えてならず、わたしは背中に水を浴びたような気がしました。見ればもう、老人は足の弱った犬を引きずるように、歩き初めています。

 神隠し。

 その意味が、当時のわたしに理解できたとは思えません。また、痴呆症が進んでいたとおぼしい老人が、真剣に忠告したわけでもなく、女の子を脅かしてやろう程度の痴愚な悪戯心から、口走ったに過ぎないでしょう。

 それでもわたしは、古めかしい言葉の裏に、底の知れない闇が覗いているようで気味が悪く、喘ぐように尋ねたのです。

「カミカクシって、何だと思う?」

 コズエはわたしに背を向けたまま。彼女の肩の向こうに覗く雑木林から、絞り出すような蝉時雨が降ってきます。胸の前で、彼女は大事そうに何かを両手で包んでいるようです。

 蝶の翅のように壊れやすい、金色に輝く何かを。

「知らんよ。チカンみたいなものやないの?」

 肩越しに振り向いて、痛々しく笑ってみせるのです。

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