ノウゼンカズラの家 第十回
見わたしたところ、花が咲いている木など、どこにもありません。
小さな公園の片面は、葉が密生した灌木の植え込みで視界がさえぎられ、もう片方は背の高い塀がせまっています。苔むしたコンクリートの塀の向こうに、煉瓦色の屋根が覗いていますが、人が住んでいる気配は感じられません。
公園の奥には雑木林の斜面が続いています。じりじりと、アブラゼミが鳴いていました。
「なんだか、静かだね」
ふと蝉たちが一斉に鳴き止む瞬間には、洞窟の奥にいるような錯覚に駆られるほど。話し声はおろか、遠く車のエンジン音さえ聴こえない静寂は、照りつける日光の存在をも忘れさせました。
するとまた、オレンヂ色の花が一輪……今度はぶらんこの脇に落ちました。地に着いた瞬間、消えたりはしませんでしたが、どこからともなく降ってくるさまは、驚くほど夢の中と似ていました。
花が落ちるたび、コズエはぶらんこを揺する手を止めて、聞き耳を立てるような仕草。それは狐の足音を聴きつけた、敏捷は兎を想わせました。
「だれか来るの?」
「べつに、だれも来んよ」
彼女にしては珍しく、言葉を濁して首を振るのです。けれどもわたしには、彼女が誰かが、あるいは何かがやって来るのを、待ちわびているように思えてなりませんでした。
けっきょくその日は、午後遅くまで二人きり、名も知れない公園で過ごしました。無駄話をしたり、コズエが小さな生き物を追い廻すさまをぼんやりと眺めるうちに、いつの間にか陽が傾きかけていました。
老いた陽光が結晶したような、オレンジ色の花がまた、空からこぼれました。
わたしは彼女がよそ見をしている隙に、花を素早く拾ってポケットに入れました。なぜコズエに隠そうとしたのか、自分でもわかりません。どこかこの世界が彼女のものであり、自身は部外者なのだという感覚が、あったのかもしれません。
彼女が見ている夢の中から、花を盗むような後ろめたさが、あったのかもしれません。
帰り道も、ずっとコズエと手を繋いでいました。行きとは道が異なるのか、覚えのない路地を通るかと思えば、広い家の庭を一度も横切らなかったのです。九州ではこっちより、ずっと日暮れが遅いのですが、帰り着く頃には、星が一つ二つ見えるほど、辺りは暗くなっていました。
心のどこかで、本当はこのまま帰れないんじゃないかと考えていたので、消防署の分署が見えたときには、ずいぶんホッとしたのを覚えています。
登校する時に顔を合わせていた場所で、夕方、さよならを言う自分が、何だか奇異に感じられました。
「さよなら」
「さよなら。また明日ね」
家の中は暗く、テレビの音だけが聴こえました。台所にだけ、電灯がついているようです。わたしは手を洗い、闇の中で空騒ぎしているテレビを消して、台所のテーブルにつきました。ラップをかけた夕食が、一人ぶん載っています。
居間の隣は「教室」に使われていましたが、現在は母が寝室代わりにしています。引き戸が閉めきられているため、彼女がいるのかどうか、定かでありません。
レンジで温めるのも面倒で、ラップを剥いだまま食べていると、不意に引き戸の開く音が聴こえました。
「帰ってたの」
力のない声に、遅く帰宅したことを咎める調子は全く含まれていませんでした。むしろそれゆえに、冷たいパスタが咽に引っかかるような味気無さに喘ぐようでした。
「うん。お父さんは?」
苦し紛れに、会話の糸口を掴みたかった。きっとそうなのでしょうけれど、よりによって、なぜそんなことを訊いたのか。母がぎょっと目を見開くのを、自分の言葉に驚きながら、なす術もなく眺めていました。
「さあ、小倉じゃないの。競馬をやってるみたいだから」
無関心を装った声の底に、鉄のような冷たい響きが籠められていました。
ちなみに、地元で生まれ育った父と違い、母は小学生の途中まで東京で過ごしています。方言を嫌い、またわたしが標準語以外で喋れば、嫌悪感もあらわに眉をひそめました。
父との溝が広がるにつれて、その傾向は厳格になっていったようです。
それっきり会話が途切れたまま、ばつの悪い沈黙が残りました。叱られてもかまわないから、どこへ行っていたのか尋ねてくれたら、どれほど胸が軽かったでしょう。夢中でポケットをまさぐったわたしの指先が、萎れた花弁にひやりと触れました。
「ノウゼンカズラじゃない」
テーブルに載せたオレンヂ色の花を眺め、母はほとんど機械的につぶやきました。それでもわたしは、ずいぶん救われた気がしたのです。
「珍しい花なの?」
「子供の頃はあまり見かけなかったけど、最近では珍しくもないわね。花がいっぱい散るから、わたしは苦手だけど」
「苦手? 綺麗なのに、どうして?」
それはわたし自身に向けられた問いのように思えて、ハッと胸を突かれました。
キレイ、ダケド、コワイ。
心の中から、そんな答えが返ってきたような気がしましたから。
「掃除が大変そうじゃない。派手なだけで、そこまで綺麗だとも思わないし」
気のない調子でそれだけ言うと、母はまた暗いリビングを通り抜け、「教室」の中に隠れました。わたしはフォークを固く握ったまま、オレンヂ色の萎れた花をいつまでも眺めていました。
この日から、コズエはほぼ毎日、遊びに来るようになりました。




