23話 夏、嵐の予感
ラポストル領地へ向けて出立し、後もう少しで到着するという頃。
侯爵家の馬車に向かって、凄まじい勢いでかけてくる馬があった。
何事か、と御者が身を乗り出す。
「伝令! 伝令! 気象観測塔より、夏の嵐の兆しあり! 至急領都へ帰還されたし!」
大声で怒鳴るように叫ばれた言葉に、グランはサッと表情を険しくした。
「承知した! 単騎にて戻る!」
グランは、護衛から騎馬を受け取ると、そのままひらりと乗る。
「アマレット、君はこのまま馬車で屋敷へ。すまないが、君が到着する時俺はどうなっているかわからない。もし危険だと思ったらどうか近寄らないでくれ、愛しい人」
アマレットは、不安で胸が押しつぶされそうになった。
「私も必ずやすぐに屋敷へ向かいます。そこで魔力たっぷりのアップルパイを作ってみせますから、どうか、どうか一人でご無理はなさらないでください」
グランの父は、生き血を啜ってさえ力尽きて亡くなったのだ。
今回の嵐が15年前の大嵐と同等の規模かは、まだわからないが、決して油断できるものではない。
そのまま馬で走り去るグランを見送って、アマレットは祈るように両手を組んだ。
気は急くが、馬車馬の足が潰れては余計に時間がかかってしまう。無理な速度は出さずに屋敷へと向かうしかない。
領都の大通りへと入り、屋敷へ向かう道すがら、警邏隊の人々が領民達へ警告を発している。川沿いのもの、海に接したところに住んでいるもの達は高台への避難を、そして、街中の者へは十分な避難物資を持って石造の建物へ身を寄せるよう呼びかける。
湿った風が重たく絡みつく。
次第に空は黒く、暗く染まっていった。
時々刻々と強まる風のせいで、馬車は遅々として進まない。結局、馬車は乗り捨てて歩いて屋敷まで向かうことになった。
ぽつり、ぽつりと乾いた地面に染みが増えていく。
ざあざあと本降りに進行するのは一瞬で、濡れたドレスがアマレットの足に纏わりついた。
「お嬢様、このままお屋敷へ向かうのは危険です! 一旦街へ戻りましょう!」
まだ屋敷まで五分の一という所で、モカがそう叫んだ。モカにとって長年の主たるグランの危機に際して、不安も焦りもあるが、まずはアマレットの身の安全を優先すべきだと判断した。
しかしアマレットは肯じない。
「行きます、必ずお屋敷まで。グラン様のもとへ」
足元はすでに泥だらけで、ドレスも重たく水を吸っている。
けれど、アマレットの足は止まらなかった。
グラン様、どうかご無事で、と心の中で叫ぶ。
その時、ふと風が弱まり、強く叩きつけていた雨粒は柔らかくしとしととした物へと変わった。
「グラン様だわ」
暗雲の広がりが急速に遅くなっていく。雨は川へと吸い寄せられ、上がりつつあった水位は強引に海へと押し流されていく。
強大な、けれども決して恐ろしくはない力がラポストル領を守るように包み込んだ。
屋敷へ向かって駆けて、駆けて、駆け抜ける。
玄関へ飛び込んだアマレットを、ロンガンが出迎えた。
「ただいま! 説明している暇はないの! オーブンへ火を入れて!」
「もしや必要かと思って火入れは既にしております、アマレット様。ですがまずは水気を拭いてお衣装替えを! お風邪を召されては私がグラン様に叱られてしまいますゆえに」
焦るアマレットに、冗談を交えてロンガンが落ち着かせる。流石の冷静さであった。
大急ぎでタオルで髪を拭き、からりと乾いた作業服へと着替えた。
一階の厨房へ駆け降りたアマレットは、氷室の魔道具から冷え切ったバターを取り出す。
カッと全身が熱くなるまで、魔力循環を加速させた。全身を駆け巡る魔力が、手のひらから溢れ出る。
まだ、魔力の操作は完璧ではない。緊張や焦りで魔力循環が乱れれば、その分だけ魔力は無駄に漏れてしまう。
焦らないよう、丁寧に、丁寧にバターを切り混ぜた生地を伸ばし、折りたたんでいく。
氷室で生地を休ませている間に、りんごのフィリングを作る。
グランの大好きな、シナモンで香り付けをした、濃厚なフィリングだ。どれだけ必要になるかわからないので、あるだけの材料で目一杯作る。
ぐらり、と一瞬アマレットの目の前が暗くなった。
——カスティーリャ様に教わった、魔力切れの予兆だ。
魔力が切れれば命に関わる。それは、嵐を収めて亡くなったグランの父のように。
それでもアマレットは魔力を注ぐことを止めなかった。グランの魔力が足りなくなれば、死ぬのはグランなのだ。できるだけ多くの魔力をグランに渡さなければ。
どうしたってもう、アマレットにはグランなしで自分だけで生き延びる未来に耐えられる気がしなかった。




