Ⅳ.かたしろ
「君は私に勝てないよ」
手力男は振り向きざまに運んで来た岩屋戸を天児屋に向かって打ん投げる。風圧に由って冠が吹き飛び、手力男の短い前髪が眉の上に落ちる。思兼に似た少しつり気味の眼元は鈍色の光を放ち、静かなる怒りがそこに滲んでいた。
・・・瓦礫と化した天岩屋戸の扉の中から、傷一つ負っていない天児屋が現れる。
「ふざけるのも大概にして貰おう」
「ふざけてなんていないさ」
天児屋はいつもと同じ笑顔で答えた。
「私は君の弱点を凡て心得ているよ。君は、私に決して勝てない様に出来ている。何故ならば、私が君を創ったのだからね」
手力男が青龍偃月刀を手に、天児屋に襲い懸る。天児屋は身動ぎ一つする事無く、甘んじて手力男の攻撃を受けた。
すぱり、と清清しい程の軽い切れ味で真っ二つに分れ、その場に崩れ落ちる。からんからん、と硬く高い音が響き、振り返って見下ろすと白炭が転がっていた。
「形代だよ。―――君と同じ」
―――いつの間にか、手力男の背後に天児屋が居る。
「・・・・・・フッ」
手力男は思わず笑みを溢した。この神が只の神でない事は、彼はともかくとして思兼は以前から気がついていた。だから、思兼はこの神を味方に引き入れようとしていた時期がある。
「・・・・・・流石、サナト=クラマと同様に惑星の守護神の跡継なだけはある様だな。だが」
手力男は偃月刀を振り翳し、地面に向かって思い切り突き刺した。衝撃に由って土が盛り上がり、岩肌が剥れ石の大きさの侭宙を舞う。
「自分の惑星を棄てる様な者に、思兼が敗けると思うかっ!!」
地面に喰い込む刃の先で土を掻き上げ、薙ぎ払う。小長谷山の周辺に雪の如く土は降り積り、之に由って3つの山脈が小長谷山を囲む様に出来、後に其等は日本アルプスと呼ばれる様になった。
「・・・無駄だよ」
天児屋は冷静な声で云い放つ。捲き込まれる様な至近距離(位置)に居て猶、天児屋は怯まず腕を組んで只立っていた。礫塵の方が天児屋を避ける様に周辺を吹き荒び、かれには白衣を掠りさえしない。
「―――君は極めて合理的に造られた形代だと思うよ、タヂカラヲ。依頼主の意向をよりよく反映している作品で私も気に入りだよ。―――でも」
手力男は大刀により一層の霊力を籠め、天児屋の結界を破る。が、天児屋のすぐ手前で大刀は屈折してずれ、刃先は微かに狙いから逸れていた。結界の内に入った大刀の先が、白炭となって崩れて仕舞う。
「・・・君は所詮、主と同じで物理的な対象しか相手にする事が出来ない。オモヒカネの霊力だって、根源を辿れば彼自身のものではないのだからね。・・・其に、君は刀を振るって戦う力しか能えられていないのだから、霊術を専門とする私とは領域が違い過ぎる。其が君の敗因の一つだよ」
急 急 如 律 令 。
天児屋が何らかの呪文を唱えると、突如火の玉が現れ、空気が膨張して物凄い勢いで風が吹き込んだ。手力男は空気の壁に弾き飛ばされ天児屋から離される。が、すぐに体勢を立て直し大刀の先を引っくり返して天児屋の左胸に命中させる。天児屋がきょとんとした表情で己の左胸を見下ろした瞬間、ずん、と手力男は腹に圧力を感じた。
外側に向かって吹き出した風が、猛烈な勢いで内側へと吹き返した。天児屋が手力男に向かって真直ぐに手を伸ばすと、大刀は天児屋の胸からするりと抜け、逆に焼け爛れて折れた鋭利な柄が手力男の腹を貫く。
「っ!!」
「―――私には、物理攻撃は効かないからね」
くっ・・・手力男は片脚を着き、唾と共に口から血を吐く。確かに、天児屋が一体どんな業を使っているのか彼には皆目見当もつかない。眼に視えるものしか信じないのは、主(思兼)のみならず彼も同じだ。
彼は昏い色をした眼で、月夜見が閉じ込められている祠を見る。この色だけは主に似ず、どちらかと謂えば布刀玉に近かった。
―――・・・あの祠だけは、手力男がどれ程暴れても、叉天児屋の呪文に依っても一切壊れない。
詰り霊力に依って守られているのだと気づいた時、手力男ははっと高き夜の空を仰いだ。
ツク―――――
「――――オオオオオオオッ!!」
手力男は偃月刀を己が腹から引き抜き、其を投げ棄てると祠の近くにある地鳴にも突風にも負けなかった丈夫な岩盤を持ち上げた。
そして、飛騨の立山に向かって投げ飛ばす。今や富士に迫る標高となった立山に岩盤が着地すると、白い氷体へと生れ変り、日本で数少なな氷河が形成された。山脈の渓に氷体が転がり、月明りに曝される。
「ツクっ!!」
美しく燃える、地平に浮ぶ赤い満月が氷体を照らす。氷体は少しずつ融け始め、軈て透明な水となって三ノ窓の渓を流れ始めた。透明な水は月の光を受けてきらきらと輝き、月が地球から遠ざかり、赤から銀へと戻るのに合わせて銀色の液体へと姿を変える。
(―――変若水!?)
ここに来て天児屋の顔色が変った。月の霊薬を月の主の居はす祠へと浸す為、手力男は飛騨と小長谷の境界を無くすべく奔る。
水を堰き止める斜面の棚田を剥そうと身体を構えたその時
「跪きなさい、志津彦」
どさっ!叩きつけられる様に地面に跪かされ、手力男は唖然として天児屋を見上げた。―――逆らう事が出来ない。どれ程抵抗してみせようとも、手足に根が生えたかの様に地面から離れる事さえ出来なかった。
「―――切札に取っておいて良かった」
未だ状況を掴めず眼を白黒させている手力男と同じ目線迄しゃがみ、天児屋はほっと息をついて云った。額には脂汗が滲み―――・・・
「・・・・・・本当は、この諱は呼びたくなかったんだけど」
―――朱い、封印のしるしが前髪の間から見えた。
「・・・・・・之が、君が私に勝つ事が出来ないもう一つの理由だよ。諱を知られたら、どれ程強大な霊力をもつ者でも、諱を呼ぶ者からの命令に抗う事は難しい。諱はその者の人格と強く結びついていて、口にするとその者の人格凡てを支配する事が出来るからね」
手力男はぎっと天児屋を睨みつけた。天児屋は溜息を吐き、手力男から眼を逸らす。噛みしめる様に口を一直線にきゅっと結ぶと、視線を下に向けた侭、感情を殺した声でこう云い放った。
「―――オモヒカネの諱も、私は知っているよ。腹水の如く禍の増大を繰り返す彼の魂を、君の魂と捏ね合わせて一つにしたのち欠陥の無い二つの魂に切り離したのは私だからね。―――フトダマとは、志賀島でのオモヒカネの産土の儀(初宮詣り)の時からの付き合いでね。あの二柱の確執については、私もよく知っている心算だよ」
手力男は瞠目した。手力男の知らない事実だ。当事者の時期もあったから過去についてはよく憶えているが、其を共有した事は無い。告げられた事も無い。
寧ろ、宇受賣でさえ知っているのか怪しい位だ。
―――!手力男の中で、漸く凡てが一つに繋がった。
「―――っ!何だって今更――――」
「フトダマの事情は関係無いよ。私もフトダマも、より自分達が勝利を得易い相手を択んでいるに過ぎない。
―――私達の任務に、失敗は赦されないんだ」
・・・天児屋は手力男の胸に掌を当てると、ずぶずぶと内部に其の侭押し込む。
「・・・・・・!!」
「新たな国・日本を創る際に必要となる三種の神器への副え物として、君の魂を戴くよ。志津彦」




