83 ◇ 少しだけ……。 ◇
(今日はこれでおしまいだ。)
駅からここまでのふたりだけの時間。このときだけは、自分の家がもっと遠くならいいのにと思ってしまう。宇喜多さんとゆっくりお話しできる数少ない時間だから。
車よりも並んで歩く方が、わたしは好き。のんびりした歩調が気持ちを落ち着かせてくれるから。特に夜は暗さと静けさで少し秘密めいた何かがあるような気がする。
(もう少し近付いてみたかったけど……。)
遠慮しなくていいなら……って考えちゃったけど、宇喜多さんはそういう意味で言ったんじゃないものね。宇喜多さんが申し出てくれたことに対して遠慮をしなくていいってこと。つまり、こうやって送ってもらうこと。
(待ち遠しかったなあ。)
花火のあいだはお話しできなかったもんね。せっかく一緒に行ったけど、大勢だったから。
もちろん、宗屋さんなら全然かまわない。本当にわたしたちは三人一組みたいな関係だから。テニス部のひとたちも平気。ただ……。
引っかかっているのは白瀬さんだ。わたしのことを好きじゃないみたいで。
(杏奈さんは「気にしないで」って言ってたけど……。)
学歴のことを言われると、どうしても落ち込んでしまう。だから、今日は特にこの時間が待ち遠しかった。
(なのにあんなにあくびが出て困っちゃったよ。)
宇喜多さんは面白がってくれたから良かったけど、普通は失礼だよね。今は止まって良かった。
(でも、もう終わりだ。)
家に着いてしまったから。
残念だけど、好きなひとと二人でお話しできる時間があるだけで十分だって思わなくちゃ。いつもとても心配してくれているし。
それに、わたしに宇喜多さんは勿体なさ過ぎるものね。何かを望んだりしてはいけない。
(それにしても……。)
さっきから後ろの宇喜多さんがカバンの中を懸命に探っている。何か失くし物だろうか。
なんだかわたしも不安になってきた。鍵がちゃんとあるか気になる。リュックのポケットに……。
(……あった。)
階段を上りきって二階の廊下。わたしの部屋は一番奥。
鍵をしっかりと握り、歩きながらほかの失くし物がないか確認。
(お財布、スマホ、定期。うん、大丈夫。)
後ろでは宇喜多さんがまだカバンを探っている。
送ってもらったお礼を言うタイミングをつかめない。玄関に到着したので、とりあえず先に鍵を開け、リュックを肩にかけながら振り向いた。
「宇喜多さん。今日もありがとうございました。」
頭を下げた、そのとき。
「あった! 良かった!」
宇喜多さんがほっとしたように笑顔になり、カバンから手を出した。
「これ、お守りにあげる。」
(え……?)
「クラス会で楽しく過ごせるように。」
(クラス会で……?)
さっきわたしが言ったから?
思いがけない心遣い。そのやさしさに、驚きと感激で胸がいっぱいになった。
差し出された手のひらには直径五センチほどの小石。灰色の平べったい円形で、なめらかな表面には白い縞が何本か入っている。
何か特別な石なのかな。化石が入っているとか、めずらしい鉱石だとか。詳しくないわたしには分からないけれど……。
「あ、ええと、ごめんね、こんなものしか無くて。でもこれ、本当にお守り……って言うか、ラッキーアイテムみたいなもので。」
照れながら話す宇喜多さん。その姿にぼんやり見惚れてしまう。
「これね、双子の石の片割れなんだ。子どものころに川で拾ってから、ずっと持ち歩いてるんだよ。」
「双子の石?」
「うん。もう一つ、大きさも形も模様もほとんど同じ石と一緒に見つけたんだ。それは家に置いてあってね、もともとは一つだった石が割れてできたんだと思うんだよね。」
「ああ、それで双子。」
「うん。こんなに角が無くなるまで長い間、ずっと並んでたなんて奇跡的だと思わない? まあ、家族は偶然似てるだけだって言うんだけど。でも俺は信じてるし、なんだか持ってるだけで嬉しいから、それからずっとお守りにして一個カバンに入れてるんだ。受験のときも、部活の試合にも、持って行ってたんだよ。」
熱心な説明を聞いていたら、子どものころの宇喜多さんが目に浮かんできた。
河原で小石を見付けて目を輝かせ、それを何度も見比べて、最後に嬉しそうに笑う。そうして二つの石を握りしめて家族のところへと駆けて行く。
それから、緊張した様子の学生服姿の宇喜多さん。あるいはテニスの試合のあと、ロッカールームでそっと小石を見つめるところ。
(それをわたしに? いいの?)
大事にしていたものなのに?
ためらっていたら、ガタン! と突然、音がした。続いて男女がののしりあう声。
(あ、まただ。)
宇喜多さんが何事かときょろきょろしている。
(こんなときに……。)
隣の家に住むご夫婦。普段から声の大きな人たちなのだけど、何か月かに一度、大きなケンカをするのだ。窓かベランダから相手の大事なものを投げてしまうスタイルで、それが始まると長い。
「あの、すみません、どうぞ中に。」
「あ、え、でも……。」
「あのケンカ、なかなか終わらないので。」
あれが聞こえる場所では落ち着いて話なんかできない。
玄関のドアを開けるとすうっと冷気が流れてきた。タイマーで冷房を入れていたことを思い出す。
「中の方が涼しいですから、どうぞ。」
遠慮する宇喜多さんのワイシャツの袖を引っ張って、玄関に入ってもらう。ドアが閉まるとののしり声が小さくなった。けれど……。
(うわ、近い。)
向かい合ってみてドキッとした。朝の電車よりも近いかも。気付かなかったけど、玄関ってこんなに狭いんだ……。
ふと、海の朝を思い出す。
二人きりの海岸の散歩。ふざけたわたしを宇喜多さんが追いかけて、つかまえて……。
(だめだめ。)
「好き」という気持ちが表に出そうになる。もっと近付きたい、という衝動がつきあげてくる。それを断固として振り払う。今まで、こんなふうに好きなひとに近付きたいと思ったことは無かったのに。どうして今回だけ?
「ええと……。」
リュックを降ろしながら頭の中を整理する。さっき、どこで話が途切れたんだっけ? わたしは靴を脱いで廊下に上がった方がいいかな……?
「やっぱりこんな石、欲しくないよね。」
振り向く前にそっと聞こえた。あわてて向き直って顔を上げると、宇喜多さんが申し訳なさそうに微笑んだ。
「ごめんね、こんなものあげようとして。何か元気が出るものって考えたんだけど、ほかには何も思い付かなくて。でもだからって、ただの石なんかいらないよね。」
「あ、ち、違います! そんなことないです! 欲しいです!」
慌てて両手で石をつかまえる。
「あの、そうじゃなくて、宇喜多さんの大事なものなのにもらってもいいのかなって……」
(…ん?)
予想外の大きさ。なんだかゴツゴツしてるし。違和感だらけ。
(なんで?)
視線がとらえたのは、宇喜多さんの手をしっかりつかんでいる自分の手。
(ひやああああああああ………!)
悲鳴が声にならなかった。
(さわっちゃったー! 手ごと握っちゃうなんて!)
ただでさえ近いのに! 恥ずかしい!
「す、すみません。すみません。」
急いで手を離すと、その手が勝手にあわあわと動き出す。
「わざとじゃないんです。ごめんなさい、そんなつもりじゃ」
(あ。)
靴のかかとが玄関の段差に――。
「わ、わ、わ。」
(転ぶ!)
バランスが取れない。靴も脱げない。何かにつかまらないと後ろに倒れてしまう!
「あれ? 蒼井さん?」
「わ! ごめんなさい! すみません!」
目の前にいる宇喜多さん。さすがに腕につかまる勇気は無い。
(でも服なら!)
思い切って左右の袖をつかませてもらう…と。
「あ……。」
(あ、だめだ。)
宇喜多さんの焦った顔。揺れる肩。足元が狭いから踏ん張れないんだ。
「……と。」
「ごめんなさい!」
パッと手を離した。
(上手に尻餅を突けば大丈夫!)
衝撃に備えて目をギュッとつぶって。
「あ。」
(ぐ、ふ。)
ドスン、コン、と音がした。
でも、衝撃は予想と違った。
体が大きく揺れたけど、ぶつかったのはお尻ではなく体の前面。そして……わたしは立っている。重心を、後ろじゃなくて前にかけて。
(宇喜多……さん?)
少しだけ目を開けてみる。微かに線の入った白い布。宇喜多さんのワイシャツだ。
腰と背中を支えられて、押し付けられるようにもたれかかっている。肺が圧迫されて少し息苦しい。
(つかまえてくれたんだ。転ぶ前に。だから……。)
まるで抱きしめられているみたい。恥ずかしい。どうしよう。
(でも。)
ドキンドキンと心臓が胸を叩いてる。こんなに強いと宇喜多さんにも伝わってしまうかも。そんなの困る。
(でも……。)
思わずまた目を閉じた。
(こんなにほっとする……。)
居心地の良さと安心感に、体の力が抜けてしまいそう。
宇喜多さんにこんなに力があるとは思わなかった。こんなにしっかり支えてくれるなんて。
(早く離れてお礼を言わなくちゃ。)
(きっと困ってるよね。)
(わたしが抱き付いたと思われてる?)
いろいろな言葉がものすごいスピードで頭の中を飛び回ってる。
いつまでもくっついてちゃいけない。だけど。
だけど……。
(あと少し。)
あと少しだけ。
転びそうになって動転したせいだと言い訳できる、ギリギリの時間まで。




