78 花火大会
「お前と姫って、二人でいるとき、どんな話してんの?」
給湯室の前で蒼井さんを待っているときに宗屋が尋ねてきた。葉空港の花火大会に行くことにしたので、今日は三人とも残業は無しだ。
「二人でって……。」
こんな場所でそんな話を持ち出すなんて。そばを通って行く職員がいるのに。
(どうせまた弱気だって言われちゃうんだろうな……。)
海から帰った翌日、宗屋はまた「告白したのか」と訊いてきた。していないと答えると、いつものとおり、呆れた顔をした。口には出さなかったけれど、どうせまたヘタレと思ったんだろう。
一瞬、蒼井さんの部屋の玄関まで送ったことを言ってしまおうかと思った。けれど、それを言ったら逆に、今まではどうしていたのかと突っ込まれると気付いてやめた。
とは言え、今月の最終土曜日には二人で出かける約束がある。この秘密の約束のお陰で、俺には今、宗屋のからかいをやり過ごす心の余裕があるのだ。
「二人で出かけたりしてないよ。」
声を低めて答えた。
「宗屋だって知ってるだろ?」
「あらたまってじゃなくても、送り迎えで二人になる時間がけっこうあるだろ?」
「ああ……、そうか、そうだな。」
言われてみればそうだ。周囲を警戒しながら先週のテニスの帰り道を思い出してみた。
「生産緑地とか。」
「……なんだっけ、それ?」
「市街化区域にある畑。固定資産税が安いんだよ。」
「ああ! 税務研修で聞いたな! って、仕事の話かよ?」
「うん。ちょうどその目印がある畑を通ったから。」
「う……、ほかには?」
この様子だと、仕事の話じゃない例を挙げないと、また何か言われる。
「高校のときのこととか……」
「おお! 同じ高校だったんだもんなあ。」
うなずく宗屋にほっとして続ける。
「数学の記号の話とか、」
「え?」
「理科の法則とか、古典の文法とか。」
「あぁ?」
「歴史の年号の覚え方とか……、蒼井さんは歴史上の人物を覚えるのが苦手だったって――ん?」
肩に手を乗せられた。
「それ、同じ高校だった意味あるか?」
「……ないね。でも、けっこう盛り上がるけど?」
こういう話だと尽きなくて安心だし、二人でたくさん笑った。
けれど、この返事を聞いて、宗屋は脱力した。
「姫とお前が前に進まないわけが分かった気がする。」
「そう?」
「やっぱ、二人とも真面目過ぎるわ。」
(そうだろうか?)
共通の話題でお互いに楽しいのだから良いと思う。それに、なんたって、月末には出かける約束があるのだから!
「お待たせしました〜。」
茶色いリュックを背負った蒼井さんがロッカー室から小走りに出てきた。綺麗な黄色の半袖カーディガンに今日は裾がひらりと揺れる黒いスカートを合わせている。長い髪は夏らしく後ろでくるりとピンで留め、前髪の下の瞳はぱっちりと楽し気に踊っている。
「おう、行こうぜ。」
「七時からでしたっけ? きっと、もう混んでますよね?」
「前に夕方から行ったときも、駅からずっと混んでたよ。」
「横崎駅で降りた方がいいかもな。東口から現地までつながってるから。」
「何か飲むものを買っていった方が良くないですか?」
相談しながら足早に階段を下りる。と、前にいたグループの一人が振り向いた。
「あ、やっぱり蒼ちゃん。」
「杏奈さん。お疲れさまでした〜。」
北尾さんは足を止めて俺たちと合流し、俺たちもあいさつを交わした。
「これから花火見に行くんだ。蒼ちゃんたちも?」
「うん。急に決まって。」
「あたしたちもだよ! まだどうやって行くか相談中。」
「あ〜、おんなじだ。」
慌ただしく話しながら北尾さんのグループとなんとなく合流。そこには海に一緒に行った元藤彩也香さんと、同期のケースワーカー、白瀬怜亜さんの姿もあった。福祉課のグループらしい。
「二人も花火?」
賑やかに区役所を出る中で、白瀬さんが俺と宗屋に話しかけてきた。
「うん、まあね。」
「うふふ、二人とも “花火” ってガラじゃないのに。」
きれいに整ったショートカットが小さめの顔とすっきりとした体形に似合っている。ケースワーカーという職種のせいなのか、落ち着いた雰囲気で俺たちよりも年上に見える。紺の細身のパンツに白いシャツという服装が、まるでもう係長のようだ。
「どの辺で見られるかなあ?」
「あ、浴衣のひともいるね。」
蒸し暑い中を急いで、かもめ駅で電車に乗れたのが六時少し前。花火は七時に開始だから、見物に良い場所はもういっぱいだろう。良い場所じゃなくても、立ち止まれる場所が見つかるかどうか。
横崎駅で電車を降りて海側に出ることにした。市のそのあたりから南側の海沿いはほぼ埋め立て地で、平坦で歩きやすい。観光地になっている花火大会のメイン会場までは二十分弱だろう。ビルやマンションはあるけれど、打ち上げ花火なら、途中からでも見える場所がありそうだ。
「混んでますね……。」
改札口を抜けて中央通路に出たとき、蒼井さんがつぶやいた。帰宅時間とは言え、確かに普段よりも人の数が多い。
「はぐれないようにね。」
声を掛けると、蒼井さんは俺の顔を見て真剣にうなずいた。それを見て、二人で来ていたら手をつなげたかも知れないのに、と思った……けれど、すぐに打ち消した。
(こんな人混みでなんて無理だ。)
誰に見られるかわからない。送るときなら――。
(できるかなあ……。)
言い出せるかどうか心許ない。それに。
(蒼井さんが嫌かも知れないよな……。)
「姫、こっちだ。」
「あ、はい。」
リュックを背負い直しながら、蒼井さんが慌てて宗屋のあとを追う。それに続いた俺の隣に白瀬さんが並んだ。
「見られる場所があるといいけど。」
「そうだね。」
白瀬さんには申し訳ないと思いつつ、宗屋と蒼井さんが気になる。
「宇喜多さん、ネクタイ暑くないの?」
「ああ、もう慣れたから平気。」
「この時間でもまだ蒸し暑いね。」
「うん、そうだね。」
相槌は半分上の空。前の二人は何を話しているんだろう。さっきから蒼井さんは笑いっぱなしだ。
(俺と一緒のときよりも楽しそうかも……。)
彼女と一番仲が良いのは自分だと思っていた。その自信がガラガラと崩れていく。
外に出てからもたくさんの人。どの道を選んでもずるずると移動する人の波に合わせて移動するしかなく、桃山さんというケースワーカーの男性を先頭に、はぐれないように進んでいった。
交通整理もあちらこちらでやっていて、道の途中では立ち止まらないように指示している。少しでも広くなっている場所には、すでにたくさんの人が立っていた。それでもどうにか横一列に並んで場所を確保することができた。
けれど。
「どのあたりに見えるのかなあ?」
「どうだろうね?」
蒼井さんと俺の間に白瀬さんが入ってしまった。
(手はつなげないって分かってたけどさ……。)
白瀬さんの向こうでリュックを胸に抱えている蒼井さんをそっと見る。
(つなげなくても隣にいられれば……。)
さり気なく近寄ることもできるのに。微笑みを交わすことも。
(そうだ。それに。)
花火の大きな音の陰で何か……少しだけ意味のある何かを言うとか。すると、驚いた蒼井さんが俺を見上げて、それから頬を染めて。で、みんなに気付かれないようにもっと近づいて、肩と腕が触れ合って。
「やだ、大丈夫です! あはははは!」
宗屋に何か言われた蒼井さんが笑った。隣で白瀬さんもくすくす笑ってる。
「どうしたの?」
はっきり分かるように蒼井さんに尋ねた。
「宗屋さんが、かたぐるましようかって言うんです。」
「だって、姫、ちっちゃいじゃん。」
「でも大丈夫です。そんなことされたら、ものすごく目立っちゃうし。」
最後の部分は俺じゃなく宗屋に向かっての言葉だ。
「くくっ、仲が良いのね。」
白瀬さんが上品に笑いながら指摘した。
「え? あ、うん。蒼井さんは一年先輩だけど、職場では俺たち『新人三人組』って言われてるんだ。」
答えながら、またしても楽し気な宗屋と蒼井さんが気にかかる。そのとき。
まだ暗くなりきっていない空が光った。と思ったら、ドーン……と低く響く音が体の中まで震わせた。
「うわあ。」
「ああ。」
「すごい。」
あちこちで囁き声が聞こえる。みんなが空を見上げている。花火が始まったのだ。
(こんなに高く見えるんだ……。)
思っていたよりも近くまで来ていたらしい。まだ明るいと思っていたけれど、花火の光が空を深い色に変えた。
最後の火花が消えたあとに微かなドン、という音が聞こえて、光が一つ、空に上って行った。それが消えたあと、その道筋の先で光がパッと開き、直後にドーン…と重い音が響く。
(ああ……、そうだった。)
花火のリズムが記憶によみがえる。
高2の夏休み。相河と尾野がいて、葵と吉原さんは浴衣を着てきていた。
(あのときは葵のことが好きだったんだっけ……。)
懐かしくて照れくさい思い出だ。
(でも。)
蒼井さんへの想いはあのときとは違う。あのときはもっとふわっとした喜びに包まれていた気がする。
(あれは……違ったのかも。)
恋への憧れのようなものだったのかも知れない。女子で初めて親しくなった葵を通して夢を見ていたのかも。「彼女」がいる高校生活を。
でも、今は違う。
蒼井さんのことが本当に大切で、こうして考えるだけで胸が痛くなるほどだ。彼女をすべての不幸から守りたい。
「うわ、くらくらする。」
「おっと。大丈夫か?」
音の合間に聞こえた会話。蒼井さんと宗屋だ。
(うわ〜、触ってる!)
上を向き過ぎてバランスを崩したらしい。背中を支えた宗屋に蒼井さんが謝っている。
(それは俺の役目のはずなのに!)
つい、うらめしい気持ちで隣の白瀬さんをちらりと見てしまった。それに気付いた白瀬さんに見返されてどぎまぎしてしまう。
「やっぱり近くだと迫力がすごいね。」
笑顔で言われた。蒼井さんを気にしていることには気付かなかったらしい。
「うん。」
この状態では仕方ない。今はあきらめて、帰りに賭けよう。




