70 ◇ 揺れる心 ◇
(ダメだ。忘れられない。)
コテージに鍵をかけながら、何度目かの深呼吸をする。忘れ物を取りに来て、これからビーチに戻るところ。
今日は午前中は海で遊んで、お昼を食べてから出発する予定。連休の最終日なので、道が混みそうだと花澤さんたちが言っていた。
(落ち着かないよ〜。)
気合を入れるように、両手で頬をはさんでみる。
(今朝は二回もだもん。)
宇喜多さんとあんなに近付いちゃうなんて! あんなふうにぎゅーっと……。
あれからドキドキしてばかり。頑張って平気な顔を装っているけど、目を合わせるのは難しい。
もちろん、意味は無かったってわかってる。一回目は葵先輩と間違えられたってことも。
(あんなにはっきり呼んだもんね……。)
あれは絶対にわたしじゃない。だって、あんなにびっくりしてたもの。
あんなに驚いたのは、目を開けたら違う人だったからだ。自分が名前を呼んだことにも気付かないほど。いつも落ち着いている宇喜多さんが。太陽くんと勘違いしたなんて誤魔化そうとしたりして。
きのうだって言ってたもんね、理想の女性は「頑張り屋で素直で、いつもにこにこしているひと」って。あれは葵先輩そのままだ。学歴を気にしてうじうじ悩んでるわたしとは違う。
(だけど。)
ぎゅーっとされた感触が消えない。それどころか前にあったことも次々と思い出してしまって……。
(どうしよう?)
こんなことが起こるたびに、宇喜多さんのことをたくさん考えてしまう。たくさん考えて……自分の都合の良い方に解釈しそうになる。
そこが困る。
もしかしたらって思ってしまうこと。近付きたくなってしまうこと。
(だから、ダメなんだってば!)
勝手な想像なんかしちゃだめだ。宇喜多さんはわたしをかわいがってくれているけれど、それはあくまでも同じ高校の先輩としてなんだから。
(そう。)
わたしはまだ十九歳の、世間知らずの子ども。だから放っておけなくて面倒をみてくれているだけだ。
(だって。)
そうじゃなきゃ、あんなことしない。あれは、わたしを女性だと思っていないからできるんだ。
それに、宇喜多さんは葵先輩が好きなんだから。夢に見てしまうくらいに。
(それはわかっているけれど……。)
何かあるたびに、納得したはずの心が揺れてしまう。揺れて……引き寄せられてしまう。
引き寄せられたら期待したくなる。でも、宇喜多さんはそういう気持ちでわたしを見ていない。
それに、優秀な大学を出ている宇喜多さんに、わたしは釣り合わない。
(そうだよ。だから。)
期待なんてしない。期待なんかじゃない。宇喜多さんは仲良しの先輩。
(うん、そうそう。)
宇喜多さんはきっと、もともとボディータッチの多いひとなんだよ。ワンちゃんを飼っているとたくさん撫でたり抱っこしたりするものね。
それに、よく考えたら、きのうは宗屋さんに担がれた。今朝の散歩のあれだって、それと変わりないじゃない?
(よし。オッケー。)
これで解決。もう大丈夫。結論が出たのだから、これ以上は考えない方がいい。何か違うことを考えよう。
軽くなった気持ちでビーチに下りる道をたどる。少し先でみんなが遊んでいるのが見える。何か競争をしているみたい。
(そう言えば、杏奈さん、張り切ってたなあ。)
今朝、杏奈さんに、前下さんは本音でものを言い合える相手が欲しいみたいだと教えてあげた。そうしたら杏奈さんは「じゃあ、遠慮しなくていいんだ!」と笑った。「これからは地で行くことにする」と。
あの感じだと、前下さんと杏奈さんの前途は明るいと思う。
「あ、ねえ、ちょっと。」
(え?)
ビーチに下りたところで呼び止められた。すれ違うと思っていた三人連れの男のひとたち。年齢は……わたしと同じくらい? 三人ともさわやか系の顔つきの、いかにも気軽に女の子に声をかけるのに慣れているという雰囲気。
「……。」
悪いと思うけれど警戒をあらわにしてしまう。返事もせずに三人を見ながら、じりじりと後ろに下がって。
「ほらやっぱり。な?」
「うん。」
三人の中の二人が楽しそうに納得し合っている。何か、わたしをネタに賭けでもしていたのだろうか。
不愉快だし気持ちが悪い。そう思って三人をよけて歩き出そうとすると。
「蒼井さんだよね?」
「九重高校の。」
(え?)
名前を呼ばれて足が止まった。
(知り合い……?)
同級生かも知れない。でも、男子とはあまり仲良くしていなかったし……。
「あー、忘れられちゃった?」
「お前、その頭だからなあ。」
「お前こそだろ?」
茶髪のひととサラサラヘアのひとがお互いを指差して言い合い、それをもう一人が苦笑いしながら見ている。このひとはたぶん、知り合いではない。
(見覚えがある……?)
思い出そうとしながら、パーカーを着ていて良かったと思った。あんな水着姿、高校の知り合い、しかも男の子なんかに見られたくない。
「俺、咲田。二年のとき一緒だった。」
「俺、成山。野球部の。」
「あ!」
思い出した! そうだ、二年の時の。二人とも野球部で、坊主頭だった。
(変われば変わるものだね……。)
あまりにも雰囲気が違う。あのころは野球ひとすじみたいな人たちだったのに。
「ごめんなさい。ずいぶんイメージが違うからわからなかった。」
「あははは、そうでしょ? 大学生になったから、坊主頭も卒業だよ。」
茶髪の咲田くんが言うと、成山くんが「俺も〜」と髪をさらりとかき上げた。その耳にピアスが見えた。
「そうなんだ? 似合ってるよ。」
微笑んで返したけれど、「大学生」という言葉がわたしに現実を突き付けてきた。
(どこの大学か訊かれたらどうしよう?)
胸のあたりが重苦しくなる。
就職したなんて言いたくない。九重の生徒はみんな進学してるのに。
「もう野球はやってないの?」
すぐにサヨナラしたいけれど、それも失礼な気がしてしまう。
「野球は高校までで十分やった。今は授業とバイトで手いっぱい。」
(授業とバイト……。)
わたしが憧れていたこと。そうなるつもりでいた。だけど……。
「俺も野球は十分だな。ねえねえ、それよりさ、蒼井さん、綺麗になったじゃん?」
(え?)
「そうそう。俺たち、ここに着いてから注目してたんだよ。そしたら名前が聞こえてさあ。」
「よく見たら本当に蒼井さんかもって思って、声かけるチャンス、探ってたんだ。水着姿、めちゃくちゃ可愛いよ。」
「長いおさげもいいよなあ?」
「うん。髪伸ばしたんだね。似合うよ。」
「あ……、ありがとう。」
そんなお世辞、言わなくてもいいのに。どう返事をしたら良いのかわからない。
(もう……いいかな?)
これでサヨナラしてしまおう。みんなが待ってるって言い訳もできるし。大学名を訊かれないうちに。
「あの、じゃあ、またね。元気でね。」
「あ、待って!」
(え?)
腕を……?
「一緒に写真撮ろうよ、せっかくだから。」
「そうそう。こんな場所で偶然会えた記念にさ♪」
「ああ、いや、わたし、写真は好きじゃないから。」
「いいじゃん、ネットにアップしたりしないから。」
(それは当然でしょ!)
「昔の仲間に見せるだけ。」
「いや、それもあんまり――」
(絶対にやめてほしい!)
「影谷、これで撮ってくれよ。」
(そんな。)
どうあっても撮るつもりなのだろうか。腕も放してくれないし。
(高校の知り合いにわたしのことなんか話さないでほしいのに……。)
「蒼井さん!」
声の方を見ると、砂利に足を取られながら走ってくる宇喜多さん。まっすぐに向かってくる姿を見たら、安心感で体の力が抜けた。
(良かった……。)
つかまれていた腕が自由になった。そこに宇喜多さんがわたしを庇うように割って入る。
「このひとはこちらの連れですが、何か御用ですか?」
(あ……。)
静かでありながら力がこもった声。見上げると、少し厳しい横顔。
(わたしのために怒ってくれてる……?)
「あ、あの、俺たち、べつにナンパとかじゃなくて……。」
「あの、そうです。俺たち知り合いで……。」
二人が慌ててる。本当に怒っているのだろうか。わたしがナンパされたのだと勘違いして。
「宇喜多さん、あの。」
腕にそっと触れて呼ぶと、宇喜多さんはサッと振り向いた。険しかった表情がいたわるような微笑みに変わる。
「大丈夫だよ、もう。」
向けられたやさしさに胸がドキンと鳴った。朝の記憶が一気によみがえる。思わずすがりつきたくなった自分に驚いて、慌てて手を引っ込めた。
「あの、このひとたち、高校のときの同級生なんです。」
説明しながらもドキドキが収まらない。頬も熱くなって、思わず下を向いた。
「同級生?」
「はい。二年のときの。だから……。」
言葉を探しているあいだに、宇喜多さんが問いかけるように二人に視線を戻した。そのとき。
「あの……、宇喜多先輩、ですよね?」
もう一人の男の子が進み出た。
「俺、影谷です。S大テニス部の。何度かご一緒したことが……。」
「え? あ。そう言えば……。」
思い出そうとするように、宇喜多さんがその子を見ている。
「打ち合ったことあるね。二度くらい?」
「はい。お久しぶりです。」
「うん。こんな場所で会うなんて奇遇だね。」
宇喜多さんからふわりと緊張感が消えた。信用できる後輩なのかも。
「この二人もS大で。」
影谷さんがとりなすように言うと、咲田くんたちがそれに合わせて弁解した。
「すいません。無理強いするつもりじゃなくて。」
「久しぶりだったんで、つい。」
三人の様子を見て、宇喜多さんはため息をついた。
「わかったよ。だけど、」
そこでスッと表情が変わった。
「彼女を怖がらせるようなことは二度としないでほしいな。」
「は、はい。」
「大丈夫です。」
うなずく二人を確認し、宇喜多さんはわたしに「行こうか」と声を掛けた。やさしい声にまたドキンと心臓が鳴る。
「はい。」
咲田くんたちに簡単にあいさつをして、宇喜多さんと並んで歩き出す。ドキドキする心臓をなだめ、頬の赤味は日焼けだと思ってくれると信じて。もう少し近付きたいと思う気持ちを封印して。
「ありがとうございました。」
お礼を言うと、宇喜多さんは咎めるような視線を向けた。
「見えるところにいてほしいって言ったのに。」
怒った言い方だけど、この感じは怒っていない。
「え、でも……、見えてたから来てくれたんですよね?」
軽くとぼけて言い返す。宇喜多さんは一瞬言葉に詰まり、すぐに「あははは」と笑ってくれた。
「本当に、ありがとうございました。」
ほっとしながらもう一度、お礼を言った。困ったときにはいつも助けてくれる宇喜多さんに、心を込めて。
けれど。
みんなと合流してからも、小さな灰色のもやもやが胸の隅に居座って……。




