68 海! その6
(ん……?)
何か……。
気配がする……。
(んー……。)
誰かいる……?
「起きないかなあ?」
ささやくような声。独り言?
(眠いよ、まだ。)
昨夜は遅かったから……。
「もしもし?」
(眠いってば……。)
でも……。
この声……?
蒼井さん……?
変だな……。
聞き違い……だよね……。
「う、き、た、さん。」
(ん……?)
この呼び方……やっぱり……。
蒼井さん……みたいだ……。
蒼井さんが……ささやいてる……。
(そうだ……。)
海に来てるんだ……。
(きのうは楽しかった……。)
蒼井さんはとっても可愛らしくて……。
(そうだった……。)
怖そうなお義父さんに「幸せにします」って誓った。
だから……。
(新婚旅行だ……。)
「あ、笑った。」
(そりゃそうだよ……。)
幸せだもん……。
「起きませんかー?」
かわいいなあ……。
だけど……。
(それだけ……?)
新婚旅行なのに……。
呼ぶだけなんて……。
(ほら、あれだよ……。)
「つんつん。」
(そうじゃなくて……。)
ほかにやり方があるよね……?
「ぎゅー。」
(だから……。)
ほっぺたはいいけど指じゃなくて……、いや、おでこも指じゃなくて! もっとやさしく――。
(もう!)
もう待つのはやめよう。きっと、蒼井さんは知らないんだ。
(おいで。)
目を閉じたまま両腕を伸ばす。蒼井さんは予想どおりの場所にいた。
「え?」
慌てた声が聞こえた。それは無視して引き寄せる。
「え、あの。」
彼女の手が胸にかかる。
(ダメだよ。)
そのままぎゅう……っと彼女の体を胸に押し付けるように抱き締めて。それから目を開ける。
「おはよう。蒼井――」
驚愕の表情で俺を見つめる蒼井さんと間近で目が合った。その瞬間。
「さんっ?!」
勘違いだった!
気付いたときには彼女から手は離れてとび起きていた。目はパッチリ開き、頭もはっきりしている。そこはリビングルーム、寝ていたのはソファーだった。宗屋のいびきがうるさくて……。
「ごごご、ごめんっ。ち、ちょっと、ねねっ、寝ぼけた、みたいで。」
寝ぼけたにしてもなんてことだ! いきなり新婚旅行だなんて! 俺がプロポーズなんてできるわけがないのに!
驚いた表情のまま、蒼井さんは座った格好で後ろに下がって行った。一人掛けのソファーにぶつかると、手探りでそれに腰掛け、背もたれに背中を押し付けるようにした。そのあいだ、ずっと俺から目を離さない。警戒しているのだ、きっと。
「あっ、あっ、あの、本当に、ごめん。」
体が暑くなったり寒くなったりする。心臓は大暴れ。ずり落ちかけたタオルケットを意味も無く手繰り寄せた。
「ええと、あの……。」
(聞こえただろうか、名前を呼んだこと。)
「何か、あの、聞こえた、かな?」
質問すると、曖昧な表情でゆっくりと首をかしげた。ということは。
(良かった! 聞こえなかったんだ!)
とにかく、何とかしてこの場はごまかさないと!
「ごめん、ね、あの、ちょっと……寝ぼけて、た、太陽かと、思って。」
「太陽……?」
両手を胸に当てた蒼井さんが弱々しく訊き返す。
「うん、ほら、あの、うちの、犬。」
「あ、ああ……。」
蒼井さんは動揺が収まらないらしい。警戒も解けないだろうか。
「うん、あの、そうなんだ。ほら、俺が散歩に連れて行くだろ? そうなってから、毎日、起こしに来るんだ。」
半分は本当で半分ウソだ。太陽は起こしに来るけれど、ドアをひっかくことしかできない。
「起きるまでじゃれてくるんだよ。それで……。」
犬を抱き締めるなんて信じてくれるだろうか……。
「ああ……、そうなんですか……。」
小さく微笑んでくれた。肩の力も抜けたようだ。信じてくれたのだと良いのだけれど。
「本当にごめんね。俺、寝起きが悪いから。」
「い……、いいえ、わたしが悪いんです。こんなに早い時間に起こそうとしたから。」
「ああ、いや、俺がこんなところで寝ていたんだから仕方ないよ。宗屋のいびきがうるさくてさあ、夜中に避難してきたんだ。」
ペラペラと舌がまわるのはやましいことがある証拠だ。でも、最後の部分は本当のことなので、気持ちが少し落ち着いた。
(そう言えば!)
落ち着いたせいで思い出した。
「花澤さんは……?」
恐る恐る部屋を見回す。
(今のを見られていたら……。)
「花澤さん? 見当たりませんでしたけど……。」
蒼井さんも一緒に部屋を見回す。
リビングルームのどこにも花澤さんの姿は無い。夜の間に部屋に戻ったらしい。
よく考えたら、花澤さんがいたら、蒼井さんがあんなふうに俺を起こすはずがない。
「花澤さんもここで寝てたんですか?」
無邪気な表情で蒼井さんが尋ねた。警戒は完全に解けたようでほっとした。蒼井さんは本当に人を疑うことを知らない。
「うん。夜中に話してたら、そのまま寝ちゃって。」
「そう言えば、去年の合宿でもそんな感じだったみたいですよ。」
「ああ、そうなんだ?」
話しながら、今度は部屋に通じるドアに目が行ってしまう。蒼井さんと二人だけで話している俺を見たら、花澤さんはどう思うのだろう?
「ええと、良かったら、散歩に行かない?」
いつもなら自分から誘うなんてできなかったと思う。でも、今は花澤さんに見つかる気まずさが勝った。もしかしたら、まだ起き抜けで羞恥心が働いていないのかも。
「あ、それもいいですね。」
嬉しそうな蒼井さんの表情にほっとする。
「でも……。」
と、彼女は壁の時計を見上げた。
「まだ早いですよ? 寝直さなくて大丈夫ですか?」
俺も時計を見上げると、まだ五時半だった。
「ずいぶん早起きなんだね……?」
感心する俺に彼女は微笑んだ。
「日の出を見るつもりだったんです。海から太陽が出てくるのが見えるって聞いたから。」
「ああ、そう言えば、北尾さんが言ってたね。見えた?」
「いいえ。来たときにはもう昇っちゃってました。」
そう言って、残念そうに肩をすくめた。確かにもうかなり明るい。
「あはは、そうなんだ?」
笑いながら、頭の中で言葉を選ぶ。
「でも、朝の海岸もきっと気持ちがいいよ。今なら誰もいないだろうし。」
(しまった!)
あんなことをした後に誰もいない場所に誘ったりしたら、また怪しまれてしまう。
反省しつつも、キラキラ光る朝の海を背景に二人のシルエットが頭に浮かぶ。手をつないだ二人の影はゆっくりと一つに――。
「ああ、そうですね!」
(え……?)
嬉しそうに胸の前で両手を合わせる蒼井さんに、複雑な気分がわいてくる。
「行きたいです。宇喜多さんと一緒なら安心だし。」
「う、うん。行こう。うん、大丈夫、だから。」
「はい♪」
(単純に喜べばいいんだろうけど……。)
なぜか残念だ。彼女の俺に対する信頼度の高さが。
「え、と、そんなに安心?」
「はい。男の人と一緒にいれば、変な人に絡まれることも無いし。」
「ああ、そうだよね。」
(なるほど。そういう意味か。)
男として頼りになるってことだ。それなら問題は無い。と言うか、嬉しい。
「それに、宇喜多さんは安全だから。」
「え……?」
喜びがストップした。
俺の笑顔がこわばるのに気付かず、蒼井さんは嬉々として説明を続ける。
「宇喜多さんって本当に真面目でまっすぐで、絶対に間違いなんか犯さないひとだと思うんです。」
「うん……、でも、さっき――」
「あれは……」
一瞬、視線をそらした彼女に胸のあたりがキュッと反応する。けれど。
「太陽クンと間違えたんですよね?」
彼女はすぐに無邪気な表情に戻ってしまった。
「あ、ああ、そう……なんだよね……。」
実は違うとは、今さら言えない。
「わたしが言ってるのはその “間違い” じゃないですよ? 女の子に手を出す系の、危ない “間違い” です。」
「ああ……。」
(わかってるけど……。)
「宇喜多さんは絶対にそんなことはしないと思います。」
「そう……だね……。」
まさか、「あなたに手を出したい」とも言えない。
「わたし、宇喜多さんのことは何があっても疑わないって決めてるんです。」
「ああ……、それはありがとう。」
これほど確信を持って言われたら、お礼を言うしか無い。でも、信じてもらえるのは嬉しいものの、胸の中はやっぱり複雑だ。だって、それだと俺の男としての性質を無視すると言われているような気がする。
(そうか……。)
きのう、俺に甘えてきたのはそういう認識があったからなのか。だとしたら。
「じゃあ行こうか。散歩に。」
(「疑わない」って言ったよね?)
皮肉な気分がわいてきて、笑顔の裏で訊き返す。
(俺なら何をしてもいいんだね?)
「はい。」
素直にうなずく蒼井さんに満足感を覚えながら、コテージから見えない場所を思い描いた。




