60 海! その1
小さな喜びや失敗をはさみながら一週間が過ぎて行き、あっという間に海へ行く日がやって来た。
「ねえ、蒼ちゃん、知ってる?!」
日曜日の朝、俺の車に乗り込んできた元藤さんが、席に落ち着くのももどかし気に蒼井さんの腕をつかんだ。
今日の海行きは、向かう方向の都合で宗屋ではなく福祉課の元藤彩也香さんを乗せていくことになっている。元藤さんは俺よりも三年先輩で、大柄で元気なひとだ。テニスの腕前はまあまあといったところで、にぎやかで楽しそうにプレーをする。
「え? 何をですか?」
俺の後ろで蒼井さんが尋ねている。
今日はまた蒼井さんは後ろの席だ。まあ、元藤さんが一緒だからそれも仕方がないとは思うけれど。
「水面さんのこと! 結婚するんだって!」
「えぇっ?! 水面さんが?!」
(水面さん?)
車を出しながら二人の会話を追う。聞き耳を立てている俺に構わず、二人は興奮気味に話を続けている。
「どこで知り合った方なんですか?」
「知り合ったって言うか、お見合いなんだって。」
「お見合い……。」
「ピアノの先生だって言ってた。そこそこお嬢様らしいよ。」
相手がお嬢様ということは、水面さんは男性らしい。そして、二人の共通の知り合いということは、区役所の職員なのだろう。
「うわ〜〜〜〜。どうしてそんな人が!」
「でしょでしょ?! そう思うよね?!」
「って言うか、そもそもオーケーするひとがいるとは思いませんでした。」
この雰囲気だと、水面さんはあまり女性に好かれるタイプではないようだ。
「お見合いだと普段の姿はわからないもんねー。水面さんってあれでもいい大学出てるし、葉空市の職員だったら安定だし、条件的には悪くないでしょ?」
「いや〜、でも、見て分かりませんかねえ? 明らかに変なひとですよ? あんなひとと結婚してもいいなんていう女性がいるなんて、信じられません!」
いや、修正した方が良さそうだ。「あまり女性に好かれない」どころではない。性善説の蒼井さんがこんな言い方をするということは相当の……。
「水面さんて、どんな方なんですか?」
興味がわいて、話に割って入った。
「子鬼っぽいひとです。」
蒼井さんがきっぱりと言い切った。その横で元藤さんが「ぷっ」と吹き出した。
「子鬼……ですか?」
まるで切り捨てるような説明に戸惑ってしまう。
「パーマかけてるみたいなんですけど、髪の毛くるくるで、少し小柄で、丸顔で、目がギョロッとしてて、いつもニヤニヤしてるんです。」
「ああ……。」
この描写を聞く限り、蒼井さんは心の底から水面さんを気持ち悪がっているようだ。これに比べたら、前下さんは蒼井さんランクでは相当上位だろう。
「水面さんはうちの係のひとなんですけど、」
元藤さんはもう少し丁寧に説明してくれるらしい。いったん言葉を切って、次の言葉を探すように間があった。
「少し、いえ、かなり危ないひとなんです。」
「危ないひと?」
元藤さんの説明もわりと大胆だ。でも「危ない」って、キレやすいとか精神的に不安定とか……?
「セクハラなんです。」
またしても蒼井さんの容赦のない声が。これはたぶん、「嫌い」と言ってもいいと思う。
「セクハラ? 仕事中にですか?」
そんな職員が本当にいるのか? この葉空市役所に?
「ええ、そうです。」
元藤さんが答えた。
「実際にさわったりはしません。でも、目付きが気持ち悪くて。」
「そうなんですよ! 杏奈さんのところに行くと、いつもじぃっと見るんです! 本当に気持ち悪いんです!」
そう言えば、北尾さんも元藤さんと同じ福祉課だ。
「スカート姿の女性が近くに立ってると、わざと物を落としてスカートの中を覗くんです。」
「杏奈さんなんか、『ゴミを取ってあげる』とか言われて、わき腹をさわられたんですって!」
「杏奈ちゃんは特にお気に入りだからねぇ……。いつだったか、杏奈ちゃんが捨てたストローを拾ってたし。」
「マジですか?」
それは気持ち悪すぎる。
「あ〜、杏奈さん、それ見ちゃったんですって! それ以来、もう三階のゴミ箱には何も捨てないって言ってました!」
「だよねぇ。」
こんなにはっきり言ってもオーケーなほど女性に嫌われている人がいるなんて……。
「そんな人が結婚ですか? それは確かにニュースですね。」
「でしょう? しかも、結婚相談所とかじゃなくて、知り合いの紹介だって。」
「そのお知り合いの方のお墨付きってわけですか。」
「まあ、親戚関係の知り合いらしいから、職場の評判は知らないんでしょうね。」
「なるほど……。」
釣書の内容としてなら、大都市である葉空市の職員という言葉は信頼の裏付けに見えるのかも知れない。
「でも、見てわかりませんか〜〜〜〜?!」
蒼井さんがバタバタしながら訴える。
「あの目つきですよ? あのニヤニヤ笑いですよ? ほんっとうに気持ち悪いんです!」
「蒼ちゃんも気に入られてるもんねえ。」
「そうなんですか?」
「うん。蒼ちゃんが来るとそわそわしてるの、はっきりわかるもん。ずーっと目で追ってるよ。」
「やめてください! 気持ち悪いですから〜〜〜〜〜!」
(蒼井さんまで目を付けられているなんて……。)
守れるものなら守ってあげたいけれど。
「ほら、蒼ちゃんって純粋無垢って感じでしょう? あの人、ちょっとロリコンっぽいところもあるんだよね。」
「わたし、そんなに純粋じゃないし、子どもでもありません〜〜〜〜〜!」
(いやいや、十分に純粋だし、かわいらしいと思うよ。)
ターゲットにされてしまうのはわかる。でも、かわいそうだ。
「結婚したら治るんでしょうか?」
「どうだろう? 無理なんじゃない?」
「絶対に無理です! そんなに簡単に治るようなものじゃないと思います!」
断固として言い切った蒼井さんに、思わず笑ってしまった。
「こんなに言われてしまう人と結婚するなんて、奥さんになる人が気の毒ですね。」
「そうだけど、職場の関係者じゃなければ、評判なんて知らないまま普通に過ごせるんじゃない?」
「ああ、確かに。」
水面さんの性癖は、解釈のしようによっては趣味の範囲内と言えなくもない。仕事で不正を働いているわけではないし。
「でも、わたしは嫌です。」
蒼井さんがきっぱりと言った。
「自分の結婚相手が、わたしが知らないところでも、みんなに嫌われているような人だっていうのは嫌です。」
「そう?」
「はい。」
真剣な表情で彼女が続ける。
「偶然にその人の悪口を聞いてしまうこともあるかも知れないですよ? そういうときはすごく悲しいと思うし、騙されていたような気がするんじゃないかと思うんです。だから、職場でも人間関係が良好で、信頼されているひとがいいです。」
(ん?)
バックミラーで目が合った蒼井さんがにっこりしてくれた。もしかして、今のって――。
(俺のこと言ってる?!)
そう言えば、俺の仕事に対する態度をいつも褒めてくれている。人間関係だって悪くないと思うし……。
「そうか。だとすると、蒼ちゃんは職場結婚派?」
(職場結婚……。)
胸がときめくのを抑えきれない。
「え?」
「だって、職場結婚ならそういう点もちゃんとチェックできるでしょ?」
「ああ……、でも、わたしの評判の方がダメですね。」
「蒼ちゃんなら心配いらないよ。」
「そんなことないです。常識も足りないし。」
(そんなことないよ!)
むしろ評判が良すぎて、俺がもっと頑張らないと!
「彩也香さんはどんな人が理想ですか?」
「結婚相手? やっぱりイケメンがいいなあ。」
「顔が第一ポイントですか?」
「だってさあ、毎日、顔を合わせるんだよ? カッコいいひとを見ると幸せな気分になるし、愛情が長続きすると思うんだよね。」
「ああ、なるほど……。」
「蒼ちゃんだって、カッコいい方がいいでしょ?」
(え? え? え? 蒼井さんも同意しちゃう?)
そうなると俺は……。
「うーん、わたしは恐れ多い気がします。自分のことが申し訳なくなってしまうと思うので、相手も普通でいいです。」
(俺は?! 俺は?! 普通ですか?!)
何か手がかりを!
「そうなの? じゃあ、重視するポイントは何? さっきの評判以外に。」
「んー……、誠実で思いやりがあるひとかなあ。」
(誠実さならそこそこ自信あるけど……。)
蒼井さんはどう思っているんだろう……?
「あ、あと、家事に協力的なことですね。」
(家事?)
「ああ、わかるわかる! 家事とか育児とか、一緒にやってくれないとね!」
「はい。仕事を辞めるつもりはないので。」
(そ、そうか!)
うっかりしていた。今どきの男は家のことができなくちゃダメなんだ。
もしかしたら、これは蒼井さんから俺へのメッセージかも知れない。しっかり頑張れと。
「ねえ、宇喜多さんの理想のタイプは?」
突然、元藤さんから質問が。
「え? あ、ああ、そうですね……。」
(蒼井さんを表わす言葉?)
的確なのは何だ? 彼女が「もしかして?」と思ってくれることは?
「……頑張り屋なひと、でしょうか。」
うん。これは絶対にはずせない。
「ああ、なるほど。宇喜多さんらしいね。ほかには?」
「う……んと、素直でいつもにこにこしているひと、かな。」
バックミラーでちらりと蒼井さんを確認。その瞬間、目が合った。
(うわ。恥ずかしい!)
なんだか告白しているみたいな気がしてしまった。
「頑張り屋でいつもにこにこ? よくある感じだねー。」
「笑顔が素敵なひとってよく条件として言われますよね。」
後ろの二人の感想が聞こえる。
(よくある感じか……。)
ありきたりの意見だと思われたみたいだ。二人とも、俺の理想にはさほど興味はないらしい。ほっとしたような、残念なような……。
(そうだ!)
それよりも重要なことがあった。
海に着いたら、まずは蒼井さんの水着を褒めないと!




