59 給湯室の決意
売店で飲み物とカスタードプリンを買って戻った俺は、職場に入る前に給湯室に寄った。蒼井さんのプリンを冷蔵庫に入れるために。
嫌なことがあった同僚にお見舞いにちょっとしたものをあげる。そんなのたぶん、よくあることだ。でも。
俺にはハードルが高い。先輩たちに、俺が蒼井さんに何かをあげるところを見られるのは恥ずかしい。
(うん。こっそり言おう。)
そっと廊下をのぞいてみる。斜向かいのうちの窓口に今はお客さんはいない。蒼井さんが書類のチェックをしているだけだ。
(よし、今だ。)
飲み物だけが入った袋を持って廊下に出る。蒼井さんにかける言葉を考えながら胸がドキドキする。
(気軽に。普通に。)
顔の筋肉が引きつっているような気がする。
「蒼井さん。」
さり気なさを演出しながら、身を屈めてそっと声を掛けた。彼女は少し驚いたようにパッと顔を上げ、すぐに笑顔になった。
「はい?」
いつもどおりの少し幼い笑顔にほっとした。
「給湯室の冷蔵庫にプリンがありますから。」
緊張のあまり声が波打ってしまい、焦る。
蒼井さんは声を出さずに驚いて、ぱくっと開けた口を両手で覆った。そんな素直な反応に愛しさが湧きあがり、ますますあわててしまった。
「あとで食べてください。」
照れくさくて思わずそっぽを向き、大急ぎでつぶやいて奥へと向かった。
(感じ悪かったかなあ……。)
先輩たちに飲み物を配りながら不安になってしまった。あんな言い方、ぶっきらぼう過ぎたかも知れない。
「宇喜多さん、ちょっといいですか?」
終業後、蒼井さんから声が掛かった。小さく手招きされて後を追うと、給湯室に入って行く。
屈託の無いその様子に、感じていた不安が期待に変わる。彼女はプリンを喜んでくれるだろうか。俺の評価は上がるだろうか。どんなふうにお礼を言ってくれるだろう。
追い付いた俺に彼女はにっこりと微笑み、冷蔵庫を開けた。
「あの、プリンって、これですか?」
「あ、そうです。」
名前を書いておいてあげれば良かった。きっと、見付けたものの、食べて良いのかどうかわからなかったのだ。
「嬉しい。プリン大好き♪」
「ふっ。」
大事そうにプリンを両手に乗せてにこにこしている彼女のあまりの可愛らしさに、笑いがこらえられなかった。こんな姿を見ることができたのだから、名前を書かずにおいて正解だった。
「東堂さんから聞いたんです、カスタードプリンが好きだって。」
俺の手柄じゃないことはきちんと伝えておきたい。過剰に感謝をさせるようなずるい手は使いたくない。
「ありがとうございます。お金は宇喜多さんに払えばいいですか?」
「あ、いいえ。」
「じゃあ、東堂さん?」
「ああ……、違います。」
「え、じゃあ……?」
彼女が小首をかしげて俺を見上げる。照れくさいから言わずに済めばいいと思っていたけれど、どうやらはっきり言うしか無いようだ。
「あの、それ、奢りです。」
言いながら、耳が熱くなってきた。
「え……? 宇喜多さんの……?」
「はい。」
「でも、それじゃあ申し訳ないです。窓口のお手伝いにも出ていただいたのに。」
「申し訳ないのは俺の方です。あの男の人が怒鳴ったとき、隣にいたのに何もできなかったんですから。」
「あれは……仕方ないです。宇喜多さんは接客中だったじゃないですか。それに、あっという間でしたから。」
彼女の視線がすうっと下がり、悲し気な表情が浮かぶ。けれどすぐに、それを振り払うように笑ってみせた。
「怖かったけど、短く終わったのはラッキーだったかな、とも思っちゃいます。何も解決していないけど。」
「ああ……怖かったですよね。」
震えていた手を思い出した。
「でも、そんなふうには見えませんでしたよ。堂々としてて。」
そう。あの人に対して、蒼井さんは弱気な様子をまったく見せなかった。ほかのお客様に対しても落ち着いた態度を崩さなかった。そんな心の強さを身に付けている彼女を心から尊敬する。
けれど、俺の褒め言葉に彼女は小さくため息をついて下を向いてしまった。
(え? あれ?)
何かおかしなことを言ってしまったのだろうか。もしかしたら、思い出させたことがいけなかったのかも……。
「……第三百六十九条。」
「え?」
何のことかわからずに訊き返すと、蒼井さんは真面目な顔で俺を見上げた。
「地方税法第三百六十九条。固定資産税の延滞金。」
「あ……、ああ! そうでしたね。」
「嫌味なお客さんに言い返してやろうと思っていました。でも……、」
彼女はまた下を向いてしまった。
「間違ってました。そういうお客さんにそんなことしたらダメだったんです。逆にもっと怒らせてしまう。」
「そうでしょうか……。」
疑問を口にしたけれど、心の中では納得がいった。怒っている人が自分の立場が不利になったからといって、簡単におとなしくなるとは思えない。
「今日の人にも、もっと違う言い方をしていれば、もう少し落ち着いてくれたかも知れません。わたしの中に相手を言い負かしてやろうっていう気持ちがあったから、それが態度に出て、余計に怒っちゃったのかも……って思っているんです。」
「そんな……。」
そうかも知れない。
そうかも知れないけれど。
「でも……、あんなふうに言われたら悔しいですよね?」
彼女は弱々しく微笑んで、「そうなんです」とうなずいた。それから。
「だから、自分が優秀だって示したかったのかなって……。でも、相手を言い負かすなんて、本当はただの自己満足ですよね。そんなことでお客さんよりも優位に立とうとしていたなんて、考えが足りなかったと思います。」
しっかりと自分を見つめた言葉と表情で、彼女がいつもよりもおとなびて見える。
(蒼井さん……。)
言葉が出ない。
だって、手が震えるほどショックだったのに。「怖かった」と言ったのに。
相手を非難しようとはせず、自分の態度を反省していたのだ。彼女は失敗を糧にして成長しようとしている。その姿がとても――。
(きれいだ……。)
失敗を乗り越えて前に進んで行こうとする意志が伝わってくる。古びたコンロや湯沸かし器が並ぶ薄暗い給湯室で、彼女の周囲だけは透き通っているようだ。もしかしたら、人は成長するときが一番きれいなのかも知れない。
「わたしが高卒だから、余計、優秀に見られたいっていう気持ちがあるのかも。ダメですね。」
気軽な調子で微笑んで肩をすくめる蒼井さん。そんな彼女が愛おしい。
「違いますよ、蒼井さん。それはきっと九重生のプライドです。」
「え? 九重生の?」
「はい。高卒だからじゃありません。俺も嫌なお客さんを言い負かしたいと思ってましたから。」
「あ、宇喜多さんも?」
「ええ。だって、九重高校と言えば県内でも屈指の伝統校ですからね。簡単には負けられません。」
「そうですか。宇喜多さんも……。」
(そうですよ、蒼井さん。高卒も大卒も関係ないんです。)
蒼井さんは思慮深い。四年間大学に通った俺よりも、ずっと。
「でもね、蒼井さん。」
ぼんやりしていた彼女が静かに目を上げた。
「やっぱりあれは怒ってもいいと思います。」
言いながら、また悔しさがよみがえってくる。
「いくら文句があっても、ものを投げつけるなんてやり過ぎです。ひどいと思います。」
断固として言い切った。そんな俺を彼女はじっと見ていた。……と思ったら、「うふふ」と笑った。
「本当はね、」
秘密を打ち明けるように、彼女は少し声を落とした。
「わたしもずっと気持ちが収まらなかったんです。窓口にいるあいだもイライラしてて。」
「だったら俺に八つ当たりくらいしたっていいんですよ。」
「でも、宇喜多さんに『プリンがあります』って言われたら、急に『もういいや』って思っちゃった。単純すぎますよね?」
そう言って、楽し気に微笑む彼女。
「そうですか。」
そのさっぱりした表情に、俺の肩からも力が抜けた。
「それなら良かったです。」
ほっとして言うと、蒼井さんは「はい」と、満足そうにうなずいた。それから。
「じゃあ、今日は宇喜多さんの奢りっていうことで。」
「はい。そうしてください。」
「せっかくだから、一緒に食べましょう。」
彼女が振り返ってキャビネットを開ける。
(一緒にって……。)
頭の中に、彼女が「あーん」と言いながらスプーンを差し出してくれる光景が浮かぶ。
(そんなの恥ずかしいけど?!)
でも、くるりとこちらに向き直った彼女の手にはスプーンが二本。当然だ。
「ね? はい、どうぞ。」
想像が後ろめたくておどおどしている俺にスプーンを一本渡し、彼女はプリンのふたをはがし始めた。見つめているのも気が引けて、隅っこの壁に視線を移動。
(まあ、一つのプリンを二人でつつくのもなかなか……。)
この小さな給湯室の中だし、親密度はアップしそうだ。
「あ、宗屋さん! 宗屋さんも一緒に食べません?」
(え?)
振り返ると、もう宗屋が入ってくるところだった。
「お! 食う食う! 腹減ってるから何でも食う!」
給湯室がたちまち狭苦しくてにぎやかになる。
(蒼井さんは俺と二人じゃなくてもいいのか……。)
「プリンなんですよ〜♪ 宇喜多さんの奢りなんです〜♪」
蒼井さんは俺の落胆にまったく気付かない。
「おお、宇喜多、気が利くなあ。いただきまーす。」
お前が気を利かせろよ! と思ったけれど、まあ、今の場合は誘いに乗る方が蒼井さんは喜ぶだろう。彼女が喜ぶなら、俺の都合などどうでもいい。……なんて思っているうちに、蒼井さんが持っているプリンに宗屋がスプーンを突っ込んだ。
「なんで宗屋が最初に食べるんだよ?! これは蒼井さんに買ったのに!」
「うわ、点数稼ぎ! 姫、今日は大変だったっすねえ。こっちまで聞こえましたよ。」
「あ〜、すみません。わたし、何にもできなくて。」
「蒼井さん、しゃべってないで早く食べないと。宗屋に全部食べられちゃいますよ。」
「え、うそ? そんなのダメ〜。」
「これ、美味いっすねえ。」
「待って待って。宇喜多さんがまだ食べてないよ。」
三人の声の中、蒼井さんの手の小さなプリンのカップが三つのスプーンの間をうろうろする。俺も気付いたら声が大きくなっていた。
通りすがりに中をのぞいた先輩が「やっぱり新人三人組か」と呆れたように笑った。一緒に新人扱いされた蒼井さんは一瞬、驚いた顔をしたけれど、すぐに「わたしも同期になりました!」と楽しそうに笑った。
(蒼井さんが笑ってる。)
ふと、そのことが嬉しくなった。
手が震えるようなショックを受けても、自分が間違っていたと落ち込んでも、彼女はこうやって笑うことができる。それらを乗り越える力を持っている。いや、「乗り越えようとする意志」かも知れない。
そんな彼女を見守りたい。乗り越えるのが難しいときには支えたい。ときどきは休ませてあげたい。
そして。
俺も成長しながら、一緒に歩いて行きたい。




