53 まさかの
自分のしていることが信じられない。職場の先輩たちにウソをついて、蒼井さんを追いかけて来るなんて。しかも、蒼井さんに触っちゃったりとか。
(狙ってたもんなー……。)
階段の先に蒼井さんを見つけたときから。事情がよくのみこめないでいる彼女の隙をつこうと。
しかも、手じゃなくて手首をつかんだっていうところがずる賢い。意味があるような、無いような、そういう微妙なところを狙うなんて。
今だって。
(座ってる位置……近いよな?)
蒼井さんがお行儀良くなっちゃってるんだから。
乗ったときには空いてる座席がけっこうあったのに、その中から選んだのは比較的狭い場所。七人掛けの座席で体の大きな人の多いところ。普段の俺なら行かない場所だ。自分だって狭いのに、当たり前みたいな顔をして話してるなんて。
(やっぱり酒のせいか……。)
今日は日本酒だけだったから、酔っても頭がすっきりしている気がしていた。いや、今だって冷静と言えば冷静だ。思考が冴えていると言うか。
ただ、その思考が向かう方向がおかしい。いつもは行動に移さないことを堂々とやってしまっている。しかも、しらばっくれ方が堂に入っている。俺はもともと感情を隠すのが得意だけど、今のこれは自分でも呆れてしまう。
(それだけじゃないな。)
何が悪いって、俺の懸念が届いていないことだ。いや、無視しているのかも知れない
頭の中で自分を観察している俺。その声が届かない。つまり、ブレーキが利かない。
それくらい酔っ払ってる。
「蒼井さん。」
梅谷駅から道路に出たところで、後ろにいる彼女に声をかけた。
「はい?」
彼女は少しためらっただろうか? 俺の様子がおかしいことに気付いている?
でも、立ち止まって待つと、慌てて隣に並んでくれた。
「はい、これ。」
「え……。」
差し出されたものを見て、彼女が目を丸くする。
「いつの間にはずしたんですか? 電車の中ではしてましたよね?」
「改札出たところで。そっち持ってください。」
「ええ、はい……。」
驚きながらも受け取ってくれた。ネクタイの一方を。それからふっと緊張を解いた様子になって、くすくす笑った。
「これ、好きなんですね。」
「うん。」
楽しい気分で歩き出す。
(ああ……、これ、やりたかったんだよなあ……。)
手をつなぐのは無理だから。こんな布だけど、つながっていると思うと嬉しくて。二度と言いだせないと思っていたけれど……。
今日はいつもよりゆっくり歩いてみる。隣の蒼井さんも、俺に合わせてゆっくり。
(何を考えているんだろう?)
空を見上げて。星座をさがしてる?
「小学生のとき、夏休みの宿題で流星群の観察をしました。」
「ああ、俺もやったなあ。」
「わあ、そうでしたか。」
「うん。ちょうど山にキャンプに行ってるときと重なってて、流れ星以外も綺麗で。」
「いいですね。」
笑いかけてくれた。その笑顔で胸が痛いような気がする。
「わたしは車の中からでした。畑の中の道端に停めてもらって。夜に出かけること自体にわくわくして。」
「ああ、そうだよね。」
蒼井さんと一緒に見られたらいいなあ……。
(って?!)
「今度の海のときに見たいね。海の上の星空ってどんな感じなんだろう?」
(言ったよ!)
返事は……?
「どうでしょう? 夜は花火と宴会って言ってましたけど……。」
「そうか。じゃあ無理かな。」
これは断られたのだろうか。でも、あんまりめげてないな。
「宴会と言えば、蒼井さん。」
「はい、なんでしょう?」
「あんなお酒の飲ませ方をしたらダメだよ?」
(うん、そうだよなあ。)
これは言うべきだ。えらいぞ、俺。
「ごめんなさい……。」
「あはは、そんなにしょんぼりしなくていいけど。」
そりゃそうだろう。楽しんでるんだから。
「でも、具合が悪くなる人もいますもんね……。」
「そうだね。まあ、俺は大丈夫だったから良かったけど。」
確かに命に別状はない。でも、変になってる。
「ただ、あんなふうに飲んだら美味しさが味わえないから残念だな。もったいない。」
「お酒……そんなに美味しいですか?」
「うん。味も香りもいろいろで、自分の好みのものを探すのも楽しいよ。」
「ふうん……。」
考え込んでる蒼井さん、こういう無邪気なところもかわいいよなあ。
(お、こっち見た。)
「飲めるようになったら、わたしもいろいろ試してみたいです。」
「ああ、そうだよね。」
(え? まさか。うそだろ? 言うのかよ?)
「じゃあ、俺も付き合うよ。そうだ! 蒼井さんの誕生日に二人で行こうか。」
「え?」
(ほら見ろ! びっくりしてるじゃないか! 俺もだけど!)
「だって、一度も飲んだこと無いんだよね? 体質的にアルコールを受け付けない人もいるから、初めてのときは酒に強い付き添いがいた方がいいと思うけど。それとも、もう予定ある?」
(強引だなあ!)
しかも、さり気なく脅かしてるし。
「いいえ、まだ……、十二月だし……。」
「じゃあ、そうしよう。蒼井さんの二十歳の誕生日は俺が予約したよ?」
(うわっ、なんか……気障っ!)
「ええ……と、はい……。」
「忘れないように予定に入れておこう♪ 十二月の何日?」
「十四日です……けど……。」
「りょうかーい。」
蒼井さんが戸惑うのも無理はない。もう全然俺じゃないもん。だけど。
(予約したんだー……。)
誕生日の、しかも初アルコールの付き添い。いや、これはデートだ。
(お誕生日デートの約束をしたぞ! やった!)
「ふっ、うふふふ……っ」
(ん?)
蒼井さんが笑ってる。肩をふるわせて。それから俺に笑顔を向けて。
「宇喜多さん。すごーく酔っ払ってますね。」
「うん。そうだよ。わかる?」
「とっても楽しそうです。」
「うん。楽しいよ。」
楽しいよ。
酔ってるからじゃなくて、蒼井さんと一緒にいられるから。
「それなら良かったです。」
うん。本当に。
少しのあいだ無言で歩いたあと、彼女が言った。
「宇喜多さんにお礼をしないといけないですね。」
「お礼? 何の?」
「こうやって送ってもらってるのとか、朝の電車の時間も変えてもらったし、テニスのときも車に乗せてもらってます。」
そんなに有り難く思ってくれていたなんて、逆に申し訳ない。俺は自分がやりたいからやってるだけなのに。一緒にいられること自体が俺には十分な報酬だということを、彼女はまったくわかっていない。
「だから少しくらいお返しさせてください。ご希望はありますか?」
(うわ、危ない……。)
今の俺に希望を訊いちゃダメな気がする。
「うーん……」
頭に浮かんでることをそのまま言ったら、たぶん、俺への信頼は消えるな。
「蒼井さんがくれるものなら何でも。」
(うん。さすが、無難な返事だ。)
こう言えばはきっと、蒼井さんはこの時点で俺に提供できる一番良いものを言ってくれるに違いない。その申し出で、彼女が俺をどの程度想ってくれているか推し量れるというわけだ。
(さらに。)
それで次のチャンスが出現するかも知れない。今の俺ならそのチャンスを迷わず利用するだろう。
それにしたって、その笑顔はなんだよ? 格好つけすぎじゃないのか? 普段の俺ならこんな笑顔照れくさくて――。
(あ、わかった!)
羞恥心が消えてる。
どうりで堂々としているわけだ。迷いも無いもんな……。
「あのう……、お弁当でもいいですか?」
ためらいがちに俺を見上げた蒼井さんが言った。
「宇喜多さん、お昼はいつも外ですよね? 嫌じゃなければ、今度、お弁当を作って行きます。」
(お弁当。)
蒼井さんの手作り弁当。もらう場面を想像しただけで心が躍る。そして、その意味は?
――嫌われてはいない。
いや、むしろ「好き」な側だと思う。ということは。
「ありがとう。もちろん、嫌じゃないよ。」
(気障だなあ……。)
前下さんほどのルックスならともかく、俺がこんなふうに微笑んでみせてもなあ……。
「うーん、でも、職場でもらうのはちょっと恥ずかしいな。」
(よく言うよ。)
次に言うつもりのことの方がよっぽど図々しくて恥ずかしいと思うけど。
「そうだ! もし良かったら、休みの日でもいい? お弁当持ってどこかに出かけようよ。俺が車を出すから。」
「え?」
驚くのも当然だ。お弁当が休日デートに早変わりしたんだから。
「いつにしようか。今月は北尾さんの海があるから来月かな。そうだなあ、お盆のあとの方が空いてるかも知れないね、家族連れが少なそうだから。それでいい?」
「あ、はい……。」
「じゃあ、これも予定表に入れておこう。ええと、八月の最後の土曜日は空いてる?」
「あ、はい……。」
「よし、その日に決定。蒼井さんも忘れないでね。」
羞恥心が無いと、恋愛に関してこんなにも強引になれるのか……。
「あの、でも、あのう……。」
「ん?」
「いいんですか、わたしとで……?」
「もちろんだよ。」
羞恥心が無いだけじゃない。意味も無く自信を持ってる。そして……やっぱり冷静だ。
「蒼井さんがお弁当を作ってくれるんでしょ? 車を出すくらいはしないとね。」
論点を微妙にずらして答えてる。無邪気な顔をしながら手首をつかんだのと同じ計算が働いているのだ。
(本当に抜け目がないな。)
でも。
約束を二つも手に入れた!




