48 ますます自信が……。
月曜日の朝、俺は無事に予定どおりの電車に乗り、横崎駅で同じ車両に乗ってきた蒼井さんと合流することができた。
俺を見付けた彼女は少しだけはにかんだ様子を見せ、俺もどんな顔をすればよいのかわからなくてドキドキしてしまった。けれど、客の間を縫って隣にやってきた彼女は、もういつも職場で見ているとおりの彼女だった。やわらかく、そして礼儀正しく。俺は軽く失望しつつも、彼女の態度のおかげで落ち着くことができたのは間違いない。
かもめ駅で会った前下さんは、俺に疑惑や嫉妬の目を向けたりしなかった。俺の「犬の散歩で」という説明を、「朝が忙しくなって大変だね」と笑ってコメントしただけで受け入れてくれた。
もともと前下さんは親切なひとだし、仕事のことも詳しい。さらに俺とはテニスという共通の話題もあって、けっこう楽しく話ができている。本当は心中穏やかではなかったかも知れないけれど、そんな様子は微塵も見せなかった。
蒼井さんもときどき質問したり笑ったりしていた。彼女の安心に俺が一役買えたのだと思うと嬉しい。
「まったく。宇喜多は真面目すぎる。」
昼休み、中華料理屋で昼食を食べながら、宗屋が俺に説教を始めた。
金曜日にカレーを食べに行き、その結果を簡単に報告したのがおととい土曜日のテニス部のとき。そのときも呆れた顔をされたけれど、ゆっくり話す暇が無く今に至ったというわけで。
「俺はテニスの朝に、お前と姫が付き合うことになったっていう報告を聞くつもりでいたんだぞ。そのためにあの日は姫を送らせたのに。」
「何言ってんだよ。」
ポットでサービスされている烏龍茶を注ぎながら言い返す。
「あれは蒼井さんの悩みを聞くためだっただろう? 俺の気持ちなんか関係ないじゃないか。」
「お前なあ。」
宗屋が言い聞かせるような態度で俺を見た。
「好きな子の相談に乗るんだぞ? しかも夜だ。普段と違う雰囲気にならなかったのか?」
「え、あ、いや、まあ……。」
思い出してしまった。肩に感じた重さを。
「ほら見ろ。なったんじゃないか。」
しどろもどろになって視線をはずしたりすれば、見抜かれるのは必至だ。
「そういうときに、どうして言わなかったんだよ?」
「何て?」
「『好きだ』でも『誰にも渡さない』でも、何でもいいだろ? とにかくお前の気持ちを。」
俺だって言いたい瞬間もあったけど。
「ダメだよ、そんなの。」
「なんで?」
不満そうな顔をする宗屋に、今度は俺が言い聞かせる。
「だって、蒼井さんは好きじゃない相手につきまとわれて困ってたんだぞ? その相談に乗るはずの俺がそんなこと言ってどうするんだよ? ますます悩みを増やしちゃうじゃないか。」
「宇喜多が相手だったら悩まないかも知れないだろ?」
「なんでそんなこと言い切れるんだよ? それに、まるで悩みを聞くっていうのが口実みたいだ。不謹慎だし卑怯だよ、そんなの。」
「いいじゃないか、上手く行けば。」
「上手く行っても後味が悪い。そもそも、上手く行くかどうかわからないのに。」
「そりゃまあ、そうだけどさ。すいませーん! ご飯、おかわり!」
宗屋の言っていることはわかる。俺だって、そうなりたかった。だけど、蒼井さんの気持ちを考えたらそんなことできない。
「まあ、宇喜多だから仕方ないな。ヘタレだってわかってたし。」
「違う。これは相手への思いやりの問題だよ。」
「わかったわかった。真面目な気持ちなんだよな。あーあ、それにしても、一歩も前進しないとはどういうことだ。」
「う。」
その言われ方は悔しい。
「『一歩も』ってわけじゃないよ。少しは進んでるよ。」
反論したのに、宗屋は興味が無さそうにちらりと俺を見ただけで、無言で食事を続けている。
「ほ、本当だよ。蒼井さんは、俺のこと『お兄さんみたい』って言ったんだ。」
(しかも、とっても嬉しそうに、だ!)
「宇喜多。」
宗屋が呆れた顔で俺を見た。
「なんで、そんなことを自慢してるんだ?」
「え……?」
「お前はそんなところは飛び越えて、恋人にならなくちゃならないんだぞ? 兄貴なんていうのは俺の役どころだ。」
「え、え、それは……。」
宗屋も姉さんと同じことを言うのか?
「お兄さんになったら……ダメなのか?」
「ダメっていうわけじゃないけど……。」
言葉のにごし方が不安をあおる。
「まあ、そこは仕方がないとして。」
しかも話を切り替えようとしている! やっぱりダメな可能性が高いのか……。
宗屋は一旦ご飯を口に運んで間を取ってから、新しい指摘を持ち出した。
「どうして姫はお前の車で後ろの席に乗ってるんだよ?」
「え? あれは。」
そうなのだ。テニスの行き帰り、蒼井さんは助手席には乗ってくれなかった。
朝、俺の顔を見るなり「今日は後ろに乗りますから」と、後ろのドアを開けて乗り込んでしまった。しかも、帰りに宗屋が降りてからも、前に移動してくれなかった。「助手席のシートベルトと相性が悪いから」と言って。
「蒼井さんが説明しただろ? 宗屋には後ろの席は狭そうだって。」
「そりゃそうだけど、最初から後ろに乗ってくるって何だよ? 宇喜多が前の晩に何かして嫌われたのかと思ったぞ。」
「そんなこと無いよ。」
俺だって、もしかしたら下心を見抜かれて警戒されたのかと思った。けれど、どうやらそうではなく、本当にシートベルトを上手く締められなかったことを気にしていただけのようだったのでほっとしたのだ。
「まあ、大丈夫だってことは見てるうちにわかったけどさ。帰りも、俺が降りたあともそのままだったのか?」
「うん……。」
「前に来いって言わなかったのかよ? いろいろ楽しいだろ、隣にいてくれた方が。」
「それは、まあ……。」
俺だってがっかりしたのだ。期待していたことがいろいろあったのだから。
「でも、バックミラー越しに話をするのもけっこう楽しいよ。」
それは本当だ。話していなくても、ミラー越しに目が合うだけで嬉しくなる。お互いに微笑み合って。
「はあ…。奥ゆかしいことで。」
まあ、そういう嬉しさは宗屋にはわからないだろう。
「それにしてもなあ、やっぱり宇喜多は真面目だよなあ。姫のために犬の散歩まで始めるんだから。」
「仕方がないじゃないか。蒼井さんと時間を合わせるために必要なんだから。」
それが俺が今朝から乗る電車を変えた理由。前下さんに対する言い訳だ。
「俺はてっきり、それはただの口実なんだと思ったよ。まさか本当に犬を散歩させてくるとはなあ。」
「だって、本当にやらないと、犬の話題になったときに困るじゃないか。ウソをついてたら、前下さんがそれに気付いたときに嫌な気分になるだろ?」
「それはそうだけどさ。」
「それに、ちょうどうちに犬がいたし。」
「なんだっけ? ボーダーコリーの太陽?」
「そう。」
太陽というのは犬の名前だ。今までは母親が散歩をさせていたのを、今日から朝だけ俺が引き受けることにしたのだ。
朝の仕事が一つ減った母親にはものすごく感謝された。ところが、俺の散歩に慣れていない太陽は、なかなか言うことを聞いてくれなかった。さらに途中で雨が降って来て、濡れた太陽を拭くのに時間がかかり、蒼井さんと同じ電車の時間に遅れるところだったのだ。
「律儀だよなあ。まあ、手を抜かないところが宇喜多らしいと言えばそうなんだけど。」
「そんなに普通と違うかな?」
宗屋には呆れられてばっかりだ。でも、真面目な人間なんて、世の中にいくらでもいると思う。俺はそこまで特殊だとは思えない。
「いや、普通と違うって言うよりも……」
そこで言葉を切って、宗屋が少し考えた。
「ど真ん中って感じかな。」
「ど真ん中?」
「そう。世間一般で『正しいこと』っていう範囲があるとするだろ?」
宗屋が箸で空中に円を描く。
「普通の人は、いろんな場面で中心からずれるんだよ。こんなふうに。」
言いながら、描いた円のあちこちを指す。
「でも、宇喜多の場合はここ。」
そう言って指したのは、真ん中。
「何をやってもど真ん中。ぶれない。」
「ふうん。」
いいんじゃないだろうか。
「正しくて安心だけど、面倒くさい。」
「面倒くさい?」
「そう。手抜きをしないから。」
「だって、手を抜くと、あとで面倒なことになると思うな。だったら最初から正しい方法でやった方がいいよ。」
「そういう正論を吐くところも。」
「………。」
そんなに面倒なら、俺に構わなければいいのに。
「でも、姫にはちょうどいいな。」
「え。」
ふてくされた俺に向かって宗屋がニヤリと笑う。
「姫も生真面目なところがあるからな。お前みたいなヤツといるのが一番気が楽なんじゃないか?」
「そうかな? 本当にそう思う?」
「ああ。だけど、」
そこで表情を引き締めた。
「ときどきは危険な男になれよ。」
「危険な……?」
「そうじゃなきゃ前に進まないぞ。俺たちは自治体職員だから『安全・安心』が第一だけど、恋愛に関しては、安心なだけじゃあ、いつまでも『お兄ちゃん』止まりだ。」
「ああ……。」
言われている意味はわかる。わかるけど。
(どのくらいの危険がいいのかわからないよ。)
俺だって男としての欲求はある。蒼井さんに手を出したいと思う。でも、どうやって、どこまで、というのがわからない。彼女を傷付けたり驚かせたりして嫌われたくない。
(それに……)
そういう行動に出ることが恥ずかしい。仕事もまだ半人前だし。
「自信ないなあ……。」
思わずつぶやくと、宗屋が笑った。
「考えすぎるなよ。たまには本能のままに突き進め!」
「『たまに』って、いつ? 何日に一回くらい?」
「それを俺に訊くなよ。」
また呆れた顔をされた。それがわからないから困ってるのに……。




