40 ◇ 楽しかった……。 ◇
(楽しかったー……。)
カーペットにペタンと座り、ベッドに背中を預けてゆっくりと息を吐いた。
今は夜の八時すぎ。ここはわたしの部屋。
たった今、窓から宇喜多さんの車を見送ったところ。わざわざ車を降りてわたしが玄関を入るまで階段の上で見届けてくれた宇喜多さんに、感謝の気持ちを込めて。
(思ったよりも遅くなっちゃったな。)
夕ご飯までご一緒する予定ではなかったのに。
首都高が混んでいたり、車線を間違えたり、いろいろ慌てるようなことがあって、都内で何度か迷ってしまったから。カーナビにも慣れていなくて、結局、首都高に乗ったり降りたりしてしまったし。
(面白かったけど。)
道路上の案内看板の見慣れない地名を必死で読むことも、カーナビの指示に二人で首をひねることも。一般道に降りたときにコンビニに寄ろうとしたら、駐車場が無くてなかなか寄れなかったりもした。
「宇喜多さん、あそこあそこ!」「え、え、え、どれ? どこ?」なんていうやり取りが、まだ耳に残っている。
(朝はちょっとだけ心配だったんだよね……。)
宇喜多さんと……と言うか、男のひとと二人で出かけるということが。
だって、仕事やテニス部の行き帰りとは、やっぱり少し違う。
きのうの朝、宗屋さんに気軽に「楽しんできて」って言われたときには「そうだな」って思った。お昼に前下さんのことで不安になって――うわ、寒気がする――、帰りは一緒にならないようにって警戒していたから、今日のことを心配する余裕は無かった。服を買いに行っているあいだは、なんとしてでも買わなくちゃって必死だったし。
(でも、家に帰ってから……。)
買ってきた服をあらためて着てみていたら、急に不安になってしまった。
二人だけで何時間も過ごせるだろうかって。わたしなんかが相手じゃ、宇喜多さんは退屈しちゃうんじゃないかって。そして、そのためにわざわざ服を買った自分が浮かれ過ぎのような気がして。
だって、宗屋さんが行けないってわかったとき、宇喜多さんは本当は中止にしようと思ったかも知れない。でも、わたしに悪いと思って言えなかったのかも。
なのに、わたしは服まで新調して――着て行く服が無いのは本当だから仕方ない――、そういう理由でありながら、心の底では宇喜多さんが褒めてくれたらいいな、なんて思ってもいた。そんな自分があさましく思えて嫌だった。
今朝も、この服を着るかどうか迷ったけれど、せっかく買ったものを着ないで後悔するのは目に見えていたから……。
(でも、褒めてくれた。)
朝、会ってすぐに気が付いてくれて。帰りにも「そういう服、仕事にも着て来ればいいのに」って。
(嬉しいな……。)
宇喜多さんの好みに合っていたのかな。
宇喜多さんは今日はジーンズだった。上は白に水色の細いチェックが入ったシャツと、その中に深いワインレッドのVネックのTシャツ。普段は見ない赤系の色が意外によく似合っていた。前髪を下ろしたいつもの髪型は、もちろんカジュアルな服装にも似合っていた。
(一緒に歩いても、違和感は無かったよね?)
宇喜多さんに恥ずかしい思いをさせなくて済んだと思うとほっとする。やっぱり着て行って良かった。
お出かけ中も、退屈してる暇なんて無かった。きれいでめずらしいものがたくさんあって、見てまわるだけで楽しくて。宇喜多さんもにこにこしていて。
(ただ……。)
ときどき恥ずかしかったな。距離が近かったりすると。
一緒に何かを見ているときに、うっかりぶつかってしまったり。シートベルトを引っ張ってもらうときとか……。あのシートベルト、どうしてわたしの言うことを聞いてくれないんだろう。さっきはシートベルトをはずそうとした手が宇喜多さんの手と当たってしまって……。
(手がぶつかるって、特別に恥ずかしい気がする。)
そういうときに、どうしたらいいのかわからない。
いきなり引っ込めたら、失礼だと思われるかも知れないし、あるいは、わたしが自意識過剰って思われるかも知れない。かと言って、平気な顔をしているのが普通なのか……。
(宇喜多さんは……?)
宇喜多さんはどうなんだろう。平気なのかな? わたしは何度もドキドキしてしまって困ってしまったけど。……でも、そういうときって無表情になる癖があるから、気付かれなかったかもね。
(それに……。)
わたしはそういう対象ではないのかも。だって、子どもっぽいもの。それに、女の子らしいところなんて無いから。
この服だって、シンプルでわりと地味だ。話し方や身振りも、高校生のころから自分がほかの女の子たちとは違うって気付いてた。女の子らしい会話や仕草やファッションに憧れてこっそり真似してみたこともある。けれど、あまりにも似合わなかったし、性格的にも無理だとあきらめた。
(まあ、宇喜多さんには女の子扱いしてもらう必要はないけど。)
宇喜多さんの心の中には葵先輩がいるし。大人の女性で同時に可愛らしい葵先輩。わたしなんかと比べることさえ申し訳ないほど素敵なひと。
(比べるなんて……。)
ふふ、と、思わず笑ってしまった。図々しい考えだ。もともと葵先輩と張り合うつもりも無いのに。
宇喜多さんはわたしのことを……そう、かわいがってくれている。宗屋さんと一緒に。
きっと、あの二人から見ると、わたしは世間知らずの子どもなんだろう。「姫」なんて呼ばれるのも、そういうところから来ているのかも知れない。
事実、仕事だけはわたしの方が一年分の蓄積はあるけれど、世の中のことはほとんど知らない。就職したときに大卒の同期と話していて気付いたのがそこだった。大学というところは、勉強はもちろんだけど、社会に出る準備を――遊びを含めて――するところなのだと思った。
宇喜多さんみたいな真面目なひとだって、大騒ぎの飲み会くらいは経験していると思う。気心の知れた友だちとの旅行とか、うるさい先輩をどうやってあしらうか、とか、大卒の同期は大学時代のいろいろなことを話してくれた。
そういう経験が、高卒のわたしには無い。ああ、高卒だからというわけじゃないかな。 <わたしが> 経験していないのだ。学校と家のことだけで精一杯だったから。精一杯だったし……、それでいいと思っていたから。
こんなふうにものを知らないから、宇喜多さんも宗屋さんも、わたしのことがめずらしくて面白いのだと思う。そして、面倒をみなくちゃと思ってくれている。
わたしはあの二人といるときが一番気楽。二人とも気取ったところが無くて、わたしのこともありのままに見てくれている。おかしなことを言っても馬鹿にしないし、特別扱いもしない。だから安心して何でも尋ねたり言ったりできる。
杏奈さんも仲良くしてるし好きだけど、なんて言うか……笑いのツボや、物事の優先順位が違っている気がして、何でも自由に話せるというわけではない。それに、あまりにも美人だから、一緒に出歩くときはちょっとばかり気おくれする。
花澤さんにもずいぶん遠慮しないでいろいろ言った。仕事のことで愚痴を言ったり、癇癪を起したりもした。でも、やっぱり花澤さんはわたしにとっては先生だった。気持ちの上である一定のラインがあって、馴れ馴れしくする限度が決まっていた。
宇喜多さんや宗屋さんに対してもそういうラインはある。でも、花澤さんよりもずっと近いし……、少なくとも宇喜多さんとの間では、そのラインをわりと簡単に飛び越えてしまう。
……今日みたいに。
(甘えてるのかなあ……。)
普段はしない子どもっぽいことを何度もやってしまった。
助手席から見たいものが見えないときに、信号待ちのあいだに助手席と運転席の間を通って後ろの席に移動してみたり。……あれはかなり驚かれてしまった。そんなに珍しいことなのかな? 戻ったときにまたシートベルトが出て来なくて迷惑かけてしまったのは本当に申し訳なかったけれど。
それから、ストーミィでおしゃべりとか、カーナビの地図で海を見てみるとか、ほかの人の前では絶対にしないことを。
でも、そういうことを宇喜多さんは面白がっていただけみたいだから……。
仲良しの先輩ってこんな感じなのかな? 何を言っても許してくれる、みたいな? 中学でも高校でも、わたしの性格では先輩や先生にいたずらしたり冗談を言ったりなんて、絶対にできなかったけれど。
(それと……。)
宇喜多さんには本当の……真剣な話をしても大丈夫だって思った。
大学に行けなかった理由を誰かに話したのは初めて。うちが貧乏だったことなんて、高校時代の友だちにも話したことがない。就職したことさえ知らない人の方が多いと思う。
仲良くしている相手でも、深刻な、暗い話はほとんどしない。相手に同情されるのは嫌だし、もしかしたら引かれてしまうかも知れないから。それに、口に出すこと自体がつらいから。
でも、今日、宇喜多さんと話していたら、急に「大丈夫」って思った。宇喜多さんには話しても大丈夫、って。思った通り、話を聞いてからも宇喜多さんの態度は変わらなかった。それがとても嬉しかった。
(宇喜多さんはちょっと特別かな?)
わたしと考え方が近いような気がする。「わかってくれる」という安心感がある。
もしかしたら、みんなに言われる <真面目> なところかな? 宇喜多さんとわたしが似てるって。だから安心なのかな。
「ふふ。」
誰かから真面目って言われると「違う」って言いたくなる。でも、宇喜多さんを見ていると、「真面目っていいな」と思う。だって、相手のことを真剣に考えてあげられるなんて、とてもやさしい証拠だものね。
(やっぱり……。)
宇喜多さんはほかのひととは違う。ちょっとだけ特別だな。
それを知っているのは……わたしだけ?




