35 昼休みの内緒ばなし
「宗屋、ごめん。」
一緒に昼食に来た定食屋で、注文が済むとすぐに謝った。雨の日は店内がすいていて、話しやすいのが助かった。
「ん? 俺を騙そうとしたことか?」
「そうじゃなくて、宗屋も蒼井さんのこと……。」
そうなのだ。仕事をしている最中に思い出した。宗屋は初めから蒼井さんのことを気に入って、「姫」なんてニックネームまで付けてかわいがっていたのだ。なのに。
「あれ? そんなこと気にしてたのか?」
軽い口調で宗屋が笑った。
「姫は確かに可愛いけど、彼女にしたいっていうのとはちょっと違うな。」
「え、そうなのか?」
「ああ。なんて言うか……可愛い後輩? 一緒にいると癒されるし、マスコット的存在で面倒見てやりたいと思う。けど、べつに恋愛禁止とか思ってるわけじゃないし。相手が宇喜多なら問題なく許可するぞ。」
「へえ……。」
そうだったのか。
「けっこうはっきりと意思表示しているように見えたのに。」
「さっきまで忘れてたくせに。」
確かにそうだけど。
「俺は恋人にするなら、ポンポン言い合えるような気が強い女性がいいな。気が強いのにポロッと弱気なところを見せられたりしたら、たぶん俺はイチコロだな。」
「ああ、なるほど……。」
それは宗屋にはいかにもありそうだ。
「だいたいなあ、」
少し呆れた顔で宗屋が続ける。
「本命にいきなりあだ名なんか付けるかよ? 好きな子にちょっかい出したい中学生じゃあるまいし。しかも、職場の先輩だぞ?」
さっきは「後輩」って言ってたのに。
「じゃあ、宗屋は……俺が蒼井さんと出かけても……?」
「いいって言ってんだろ? 朝も、楽しんで来いって言ったじゃないか。」
「……そうか。」
(それなら……。)
楽しんでもいいのだろうか。
蒼井さんも、一晩経った今朝も、一緒に出かけることを迷っている様子は無かった。宗屋が行けないとわかってからも、特に変わった様子も無くて……。
(もしかしたら。)
蒼井さんも楽しみにしていてくれているのかも知れない。だとしたら、一気に二人の仲が……。
(うわ。)
助手席に座る蒼井さんの手を握る自分を想像してしまった。驚く彼女に微笑む自分。いや、それだけじゃなく、もしかしたらもっと――。
「煮魚定食、お待たせしました〜!」
元気の良い声にハッと我に返る。
「ぼんやりしてんじゃねえよ。」
宗屋がニヤニヤした。俺が何を想像していたのか、まるでお見通しのような顔だ。それを見たら、落ち着かない気分になって、少しばかり頬が熱くなった。さり気なく下を向いて箸を手に取る。
「なあ、宇喜多って、酔っ払うとどうなるんだ?」
食べながら宗屋が尋ねた。
「お前、かなり強いだろ? 普段は顔色も変わらないもんなあ。」
「きのうはかなり飲んだからなあ……。」
自分の強引な態度を思い出すと、今でも蒼井さんに申し訳なくなる。
「姫と一緒で浮かれてたのか?」
「違うよ。蒼井さんと仲がいい女のひとが来てて、かなり酔っ払ってたんだよ。で、蒼井さんがその人にそれ以上は飲ませたくないからって、そこにあった紹興酒とウィスキーのビンを空にしろって言って俺に……。」
「はははは! 姫に飲まされたのか!」
「ビンをほかの場所に持って行こうとするとその人が文句言うし、蒼井さんは俺が酒に強いって知ってるからガンガン注いで急かすし……って言うか、強い酒だってわかってないらしくて、ビールのグラスで飲まされたよ。」
ウィスキーはさすがに氷を入れてもらったけど。
思い出してため息をついていたら、宗屋がしみじみと言った。
「姫は大学に行かなくて良かったなあ。」
「どうしてだよ?」
彼女は本当は進学したかったのに。
「あんまり純粋すぎるからだよ。自分の周囲の人間はみんな <いいひと> だと思ってる。大学にはそんな子を捕まえようと、手ぐすね引いて待ってる輩がたくさんいる。姫みたいに世間知らずな子はたちまち餌食になっちまう。」
「そんな……。そりゃあ、確かにそういうヤツもいるけど、蒼井さんはけっこうしっかりしてると思うよ。」
「だから逆に危ないんだよ。真面目な性格も、頼られたら断れないところも、利用しようと思うヤツにはもってこいだ。」
彼女がそんなに簡単に引っかかるとは思えない。けれど、簡単に否定することもできない。
確かに彼女は前下さんを除いては誰のことも警戒していない。それは、彼女がよく口にする「いいひとなんですよ」という言葉からもわかる。お客様のことと同じように、基本的に性善説のひとなのだ。
けれどその分、蒼井さんのまわりには、彼女を大事に思うひとが集まるのではないかと思う。花澤さんや俺たちのように。その中で彼女は守られて、やっぱり人を疑うことを知らないまま、充実した大学生活を送ることができるのではないだろうか。
(いや……、そうとも言い切れないか。)
きのうは俺自身が危険人物になりかけたではないか。
酒のなせる業とは言え、俺は彼女の性格を利用した。俺に下心があるなどと疑うことのない彼女を言いくるめて、自分の願望を押し通した。それは彼女を裏切る行為ではないのか?
ということは、社会に出ても、彼女には危険がいっぱいあるということで……。
「で?」
「え?」
宗屋が身を乗り出してくる。
「姫をどうやって誘ったんだよ? お前は酔っ払うとどうなるんだ?」
「…………。」
聞こえなかったふりをしてみたけれど、宗屋は黙って俺の答えを待っているだけ。見つめられ続けてあきらめた。
「まあ、ちょっと……ストッパーが緩くなる感じ。」
「緩くなる? 暴走するほどじゃないってことか。宇喜多らしいな。」
「そうかな。」
「だとしても、酔った勢いで姫を誘ったんだな? それで今朝になって困って、俺に一緒に行ってほしくなったってわけか。」
「まあ……そうだよ。なあ、宗屋、本当に行けないのか?」
「好きな子と二人で出かけるのが恥ずかしいなんて、お前の方が中学生並みだな。」
「べつに恥ずかしいってわけじゃないよ。」
否定しつつも、また顔が赤くなったのがわかった。
「蒼井さんは職場の先輩なんだぞ。職場での良好な関係を保つためには――」
「誘っただけなのか? ほかにも何かあったんじゃないのか?」
俺の言い訳を遮って、宗屋が楽しそうに訊いてくる。
「……そんなに無いよ。送って行っただけ。」
ネクタイで手をつないだつもりになったことや、必要も無いのにネクタイを結んでもらったことは絶対に言いたくない。ましてや許婚設定のことなど。それこそ恥ずかしいし、蒼井さんを騙した行為でもあるから。
それに、それらはこっそり秘めておきたい思い出だ。しかも、「ネクタイを結んでもらった」なんて言ったら、「朝まで一緒にいたのか!」なんていう冷やかし風ツッコミが来るのは目に見えている。
「もしかして、ストッパーが緩まないと送ることも言いだせなかったとか?」
「それは……どうだろう? それほど遅い時間じゃなかったし、言わなかったかも知れないな。」
「ふん。ヘタレだな。」
鼻で笑われるなんて、ちょっと腹立たしい。
「そんなこと無いよ。そもそもあんなに飲んだから自分の気持ちに気付いたんであって、それまではそんなこと思ってもみなかったんだから。」
「はん。それもお前らしいな。俺は最初からわかってたけど。」
「何を?」
「お前が姫に惚れるって。」
「えぇっ? 何で?」
俺がわかってなかったのに。
「男の勘。」
ニヤリと笑って宗屋が続ける。
「宇喜多が惚れる相手は、真面目っていうのが必要最低条件だろうなって思ってた。姫はその代表選手みたいなものだ。そのうえ素直で、しかも宇喜多のことを気にかけてくれている。さらに花澤さんの話だ。あの子のけなげさに、宇喜多が心を動かされないわけはない。」
宗屋の解説がすべて当たっているような気がする。俺はそんな条件を吟味して蒼井さんに惹かれたわけではないけれど。蒼井さんはただ「蒼井さん」で、その存在を言葉で分析することなど意味が無い。
「なあ、明日、コクっちゃえば?」
「な、なに言ってんだよ?!」
今度は耳まで熱くなった。すぐに身を乗り出して小声で抗議する。
「知り合ってまだ二か月だぞ? 無理に決まってるだろ?」
俺の抗議に宗屋がまた呆れた顔をする。
「ったく。世の中には会ったその日に決まるヤツだっているんだぞ。しかも、お前と姫は平日はほとんど一日中一緒に過ごしてるんじゃないか。二か月って言ったって、普通の何倍も一緒にいるだろ。」
「そりゃそうかも知れないけど……、蒼井さんだって困るよ。」
「なんで?」
「同じ職場で一緒に仕事してるんだぞ? 断りにくいじゃないか。」
「うーん……、でも、チャンスなのになあ。」
あきらめきれない様子で今度は宗屋が身を乗り出す。
「明日は土曜日だぜ。しかも、姫は一人暮らしだ。」
「だから何?」
「帰らなくてもいいってこと。」
(!!)
ドカン! と心臓が爆発したかと思った。そのまま激しい鼓動が続き、手が思うように動かない。
「な、な、な、宗屋。それは。」
「ほら、遠出したついでに、道が混んでて帰れないとか言ってさ。」
お椀を手に取るのはあきらめた。ドクンドクンと鼓動が頭に響いてくらくらする。目をつぶると蒼井さんが恥ずかしげにうつむく姿が……。
(ああもう……魅力的だけど!)
妄想を振り払い、宗屋をまっすぐに見つめる。
「そんなことできないよ。蒼井さんを罠にはめるなんて。」
きっぱり言うと、宗屋がため息をついた。
「まあ、宇喜多には無理か。ヘタレだからな。」
「違う。大事にしてあげたいと思うからだよ。」
「何とでも言えるさ。」
呆れたような宗屋の声を聞き流し、胸のうちでもう一度「大事にするんだから」と繰り返す。だって、こうやって言い聞かせないと、悪魔の甘美な提案に心が傾いてしまいそうなのだから。




