30 油断大敵!
(今日は無事に終わりそうだ。)
窓口に座って修正リストのチェックをしながら思った。今日は昼休みの窓口当番。残り時間は十分ちょっと。
葉空市の区役所はどこも昼休みも窓口を開けている。一般的な用件なら一日中オーケーだ。ただし、当番一人しか残らないので手薄になる。税務課では各窓口に一人ずつ残るだけ。電話にも出る。
とは言っても、手が足りなくなると、係長かその場にいる職員が手伝ってくれる。蒼井さんは窓際の打ち合わせスペースでお弁当を食べていることが多いので、必然的に手伝いに出てくれる回数も多くなる。昼に外出する職員と比べると、休憩時間が削られて申し訳ないとは思うけれど、自分が昼の当番のときに裏に誰かがいてくれるのは大変心強い。俺はまだ知らないことがたくさんあるから。
前回は軽自動車税のことで、原さんに助けてもらった。
そのお客様は年配の女性だった。息子さんに頼まれて納付書を取りに来たのだ。
けれど、息子さんの名前は登録されていなかった。ナンバーを尋ねると「わからない」と言う。もしかしたら軽自動車ではなく普通自動車ではないかと思ってナンバープレートの色を聞いたけれど、「見た記憶がない」。メーカーや車種を尋ねても、色以外は曖昧。念のため課税係長にお願いして登録の台帳を見てもらったけれど出て来ない。
「オリンピックのマークみたいなのがついている気がする」という言葉で外車じゃないかとは思った。たぶん軽自動車ではない。でも、確実では無いので、一駅離れた県税事務所に行くようにとは言いづらい。そして、その女性は「息子が区役所でもらえるって言ったんだから間違いない」と言う。
普段なら、一度帰ってナンバーを確認してからこちらに電話をかけてもらう。それで用事は間に合うのだ。けれど俺は、年配の女性が息子さんの言葉を信じて、自分ではよくわからないまま区役所に来たということが気になってしまった。きっと、心細く思いながらも区役所に行けばわかると思って来たのだろう。そう思うと、用事を済ませないまま帰るように言うのはためらわれた。でも、電話で県税事務所に問い合わせても、名前だけでは個人情報保護で教えてはくれないだろう。
ちょうどそこに、原さんが昼食から戻って来たのだった。俺は何か方法が無いかと原さんに助けを求めた。すると原さんはその女性に、息子さんに電話をかけてくれないかと頼んだ。その途端、目の前が開けた気がした。
息子さんが電話に出たところで原さんが交代して説明し、車種とナンバーから普通車であることが判明した。そして、県税事務所が所管であることを伝えることができたのだ。俺だけじゃなく、お客様もほっとした様子だったことが印象的だった。
でも、あとになってから、電話をしてもらう方法を選択すべきだっただろうかと悩んだ。その方があの女性は早く帰れたのだから。
すると原さんは、「相手が満足できる方法を」と教えてくれた。早く帰りたいとか、時間がかかっても用事を済ませたいとか、相手の状況に応じて方法を選択すべきだと。あの件は、お客様が納得したのだからあれで良かったのだとも言ってくれた。
<状況に応じて> というのは俺にはまだ難しい。経験と機転が足りないからだ。
基本や予想と違うことはいくらでも起こり得る。経験が足りない分は先輩たちに助けてもらう必要がある。うちの先輩たちなら、嫌な顔をせずに助けてくれるだろう。そして機転は……幅広い知識といろいろな角度から物事を見る訓練だろうか。まだまだ努力が必要だ。
「あ、ちょっといい?」
「は、はい。どうぞ。」
通りかかった赤いつなぎの作業服を着た男性がせかせかと近付いて来た。
バイクの登録をやっているこの階では作業服姿のお客様もめずらしくない。
「仮ナンバーってどこ?」
「仮ナンバーですか?」
初めて聞く言葉だ。でも、ナンバーというからには車のことに違いない。
「軽自動車ですか?」
「あ、違う。普通車。」
(普通車か。)
「普通車ですと県税事務所になりますが。区役所では軽自動車しか取り扱いをしていないので。」
答えながらなんとなく気になる。自動車関係の仕事をしているようなのに知らないのだろうか……?
「え、そうなんだ? 事務所のひとが区役所だって言ったから来たのに。悪いね。ありがとう。」
「いいえ。お気をつけて。」
お辞儀をしたあとも、何かが引っかかる。
あのひとは県税事務所の場所は知っているらしい。ということは、ある程度は慣れているはずだ。それに、事務所のひとが言ったって言ってた……。
(違ったかも!)
急いで立ち上がって奥へ行く。
「蒼井さん。すみません。」
「ん、はい、何でしょう?」
もうお弁当は食べ終わったらしい。文庫本を閉じながら顔を上げた。
「仮ナンバーってうちですか?」
「ああ、それは総務課です。六階の六十一番。」
(そうなんだ?!)
すぐに追いかけなくちゃ!
「すみません! ちょっと窓口お願いします! 俺、県税事務所って言っちゃいました!」
カウンターの方を振り返っても、通路にはもう赤いつなぎは見えない。
(急がないと!)
カウンターから出たところで蒼井さんが追い付いてきた。
「宇喜多さん、どんなひとですか?」
「赤いつなぎの男性です。三十代くらいの。」
「わかりました。わたしは裏の階段を下りてみます。窓は係長にお願いしましたから。」
言いながら蒼井さんが走り去る。二基のエレベーターのランプは三階と五階に点いている。それを確認し、隣の階段を一段抜かしで駆け下りる。
(どうか、まだ庁内にいますように!)
自動車関係の人なら車で来ている可能性が高い。駐車場は一階の裏側の出口から出たところだ。ということは、蒼井さんが行った裏側の階段を使ったのだろうか。
(どっちに歩いて行ったっけ?)
思い出そうと思っても、まったく思い出せない。ぼんやり考えていたせいだ。
(一階!)
一階は案内用の窓口と収入役室、銀行の出張所と売店などが端にあり、あとは広いロビーになっている。見回すと、奥の階段から蒼井さんが出てきた。そちら側でも会わなかったらしい。
(エレベーターか?)
今は二階。これに乗っているだろうか。
蒼井さんは俺を見て裏口を指差すと走り去った。駐車場を探してくれるつもりなのだ。
(乗っててくれ!)
二階と三階は四階に比べて利用者が多い。さらに、区役所のエレベーターはバリアフリー仕様でかなりゆっくりだ。イライラしながら何気なくエレベーター横の案内板を見た。すると、六階のところに『仮ナンバー』と書いてあることに気付いた。
(ああ……。)
こう書いてあるということは、区役所ではメジャーな用件なのだ。俺も知っていなくちゃならなかったんだ。毎日のように目にしていたはずなのに。窓口の案内用一覧表にも書いてあったはずだ……。
反省と焦りで気が気じゃない俺の前でようやく「ポーン」という音がした。静かに扉が開く。
(いた!)
車いすの男性の奥に赤い作業服姿が見える。ほっとしながら扉の前から退き、出てくる人びとをやり過ごす。
「あのっ。」
前を過ぎようとした赤い作業服の男性に急いで声をかけた。俺を見ていぶかしげな顔をする。俺の顔を覚えていないのだ。
「さっき、仮ナンバーのことをお尋ねになったお客様ですよね?」
「ああ……、うん、そうだけど。」
あの窓口にいた職員だと気付いてくれたらしい。
「申し訳ありませんでした。仮ナンバーの手続きは区役所で間違いありませんでした。六階の六十一番です。」
思い切り頭を下げた上から「え、そうなの?」という声がする。
「すみません。確認不足でした。余計なお手間をおかけしてしまい、本当に申し訳ありません。」
もう一度お詫びを言っているあいだにパタパタと急ぐ足音が近づいてきた。
「あの、仮ナンバーのお客様……?」
「ああ、はい。」
蒼井さんの声に男性が答えた。俺と男性のスニーカーのあいだに女性用の靴が並ぶのが見えた。
「間違ったご案内をしてしまい…申し訳ありませんでした。仮ナンバーは、六階の六十一番、なんです。」
走って来たらしく、息が切れている。もしかしたら、駐車場をひとまわりしてくれたのかも知れない。そっと頭を上げて彼女を見ると、胸の前で手を握り合わせて、本当に「申し訳ない」という様子でお客様を見上げていた。
「わかりました。六階ね。」
作業服の男性が気軽な様子でうなずいた。
「はい! 六十一番、エレベーターを出た左斜め前の、一番近い窓口です。」
「わかった。ありがとう。」
「いいえ。すみませんでした。」
ちょうど来ていたエレベーターに男性が小走りに向かうのを見ながら、俺も蒼井さんの隣で頭を下げた。頭を上げたときには、エレベーターの前にはもう誰もいなかった。
「間に合って良かったですね。」
自分の頭に浮かんでいた言葉が隣から聞こえた。蒼井さんが微笑んで俺を見上げていた。
「ありがとうございました。」
今度は蒼井さんに頭を下げる。
「いいんですよ、わたしのことは。宇喜多さん、自分で間に合ったじゃないですか。」
「それはそうですけど、一緒に探していただいて……。」
そのとき、一時のチャイムが鳴った。
「いけない! 窓口に出なくちゃ!」
蒼井さんが叫んだ。
「あ、あの――」
すでに蒼井さんは裏の階段に向かっている。俺も急いで追いかける。
「宇喜多さんは急がなくて大丈夫ですよ。ご自分のお昼の時間ですから。」
「それは……、そうですけど……。」
「あのお客様、あんまり怒らなくて良かったですね?」
階段を駆け上りながら蒼井さんが話している。しかも、俺のことを気遣う内容ばかり。
「蒼井さん。本当にすみませんでした。」
「いいんです。大丈夫ですから。」
四階に出た。
「すみません、係長。お弁当箱を片付けたら出ますから!」
窓口に座っている係長に声をかけて、蒼井さんが奥へと走って行く。
「ありがとうございました。僕が代わります。」
申し訳なくて係長に申し出た。係長は「無事に済んだ?」と笑顔で尋ね、俺が「はい」と答えると、「良かったね」と言ってくれた。そして一言だけ、「これからは気を付けてね」と。
そんなやりとりのあいだに蒼井さんが出てきてしまった。そして、「早くお昼に行ってください」とにこやかに俺を追い出した。
昼食に出ながら猛烈に反省した。知らないことは確認するのが基本なのに、俺はそれを怠ったのだ。そして、お客様にも先輩にも迷惑をかけた。あのお客様が怒らなかったのは、きっと蒼井さんが一緒に謝ってくれたからだ。
(油断していたんだ……。)
配属から二か月経って慣れてきたと思って。緊張感が足りなかったのだ。
ミスをしたらみんなに迷惑をかける。みんなが助けてくれるけれど、それに甘えていてはいけない。
(気を引き締めなくちゃ。)
今回の反省をしっかりと胸に刻んだ。
お読みくださって、ありがとうございます。
第三章「一人前への道は険しい。」はここまでです。
次から第四章「なんだか気になります…。」に入ります。
二人の関係が少しずつ進み始めます。




